30)
五井野正著 伝説の70年代のベストセラー小説 「七次元よりの使者」

 今から37年前に五井野博士によって書かれた小説「七次元よりの使者」シリーズ(0巻〜3巻)は、今では入手困難なプレミア小説となっており、Amazonでは全巻セットで250,000円で販売されています。

それほど価値があるかは実際に読んでみないとわからないでしょうし、そして読む人によっては、250,000円以上の価値を感じる人もいれば、まったく価値を感じない人もいるかと思います。

ただ、それでもこの小説が普通の小説ではないことは、今の時代の人々であれば、その多くの方々が読めば理解できるのは確かだと思います。

以前にもお伝えしましたが、この小説のすごいところは、普通の小説は事実があって、それを小説にするものですが、この「七次元よりの使者」は、小説があって事実が後からついてくるという驚異的な「予言の小説」であるからです。最も五井野博士にとっては、これも実際に見て来た事実をもとに小説にしているのでしょうが……いずれにしても、この世界の37年も前から未来に原発事故が発生することを予想しており、さらには、これから起こるであろう首都直下型地震、富士山の噴火、そして地球の最後までもが小説の中で書かれています。

今の時代であれば、こういった事柄はある程度予測できることかもしれませんが、小説が書かれたのは、37年前の1975年です。

自分が生まれる7年前のことなので、当時の人々や世間の価値観はわかりませんが、恐らくは、まだまだ霊的な話をするとオカルトと呼ばれていた時代であり、ましてここまで近未来を具体的に予測した小説、はたまた予測していた人はいなかったと思われます。まぁ、1973年に刊行された小松左京のSF小説「日本沈没」は、そういった意味では少しだけ近い部分もあるかもしれませんが、あくまでもあれはこれから起こる大激変の一部のことしか書かれていませんし…。

何よりも「七次元よりの使者」が粋なところは、偶然に「予言の小説」となったわけでなく、著者自らが「予言の小説」であることを事前に告知しているところです。

各巻の小説の目次の裏には、以下の一文が必ず書かれています。

「この小説はフィクションで登場する人物・団体等の名称は全て実在と関係ありません。但しこの小説と同じ様な事が未来に起きた時、これは私からの読者に対する冗談としてプレゼントにしたいと思います」

さらに第0巻のプロローグでは、小説の内容が未来を見て来たことであるとはっきりと書いています。

「この中の多くは私が日常体験をした事を私なりに才を持って小説的に再構成しているものであるし、私は既に未来を見て来ているのです。悪しからず。」

ここまで知ると何が何でも内容を読みたくなる小説ではありますが、ここで吉報として、なんとつい先日より「七次元よりの使者」の小説がインターネットで公開され始めました。

【七次元よりの使者公開サイト】
http://www.7jigen.jp/

これも五井野博士を世に出すための1つの施策であり、当然ながら博士も認識されている公式なサイトです。是非とも多くの方々に読んで頂きたいと思います。

まずは、もっとも評判の高い「第0巻」から少しずつ公開されています。

ただ、公開されたことは吉報ですが、この「第0巻」は地球最後の時であり、読む人によってはこれが近い将来に迫っている未来であると感じたならば、悲報となるかもしれません。

「第0巻」には、地球最後の時が差し迫る中、太陽から新たな光が生命エネルギーとなって地球に降り注ぎ、地球上の生命体の3次元の肉体を変異させること、そして死後の世界は消えてなくなってしまうことやそれに抵抗する勢力がいて、彼らはそれを阻止するために地球をブラックホール化し、地球を現在の軌道から外してしまおうとしていることなどが書かれています。そして、人間は新たな星に転生するか、霊体となって地球外に避難するか、UFOに乗せてもらって避難するかなども…。

詳しくは少しずつ公開される本文を読み進めていくとわかると思いますので、是非ともこの機会に「七次元よりの使者」の公開された0巻の内容をご覧下さい。もちろん、すべてが確定しているわけではないので、これから色々と準備を進めていけば、シナリオは変わると思いますので、悲報と感じないように…。

でも、こんな未来が実際に起こるかどうか信じられない人もいるかと思いますが、少なくとも自分もまったく同じような未来をあらゆる方面から聞かされているし、自身でも地球の未来の途中まで視ています。だから個人的には信じる信じないのレベルではなく、ただ納得するだけでした。でも、判断はあくまでも個々に御任せしますけどね。

また、スマートフォンなら問題なく閲覧できるかと思いますが、標準的な携帯などでは見れない場合もあるので、まずはプロローグである「落葉の落書き」という内容から当ブログでも小説の一部を転載させて頂きます。


12)

28)



落葉の落書き
 何巻とも続くこの小説を書くにあたって私自身この小説以上に奇妙な体験をしてきた事とこの小説を書くに至った動機を読者に述べたいと思います。
 それは時間と空間のカラクリと私個人の問題です。
 私は理論的には時間と空間と質量の関係の法則を独自に十八の頃から持っていました。それはアインシュタインの相対性理論を超えていたものでした。
 こう言うと生意気なとか自惚れ屋とか思う人もいるでしょうが私自身、その当時、それが私の人格上に命取りになるのではないかと思いごく平凡に生きようとしていた事は事実です。
 しかし、小学校の頃からの科学への目芽え、自然に古典力学の法則を独自に知っていて中学校の時に波動化学という現代の科学にも考えられていない様な方法で自然を理解し又、兄貴の大学課程の教科書を終了していた私は科学に対して絶対の自負を持っていた為に終に高校に入ってから科学者そのものに対して冒瀆を考えるようになり始めました。
 それは学生運動が盛んになり東大闘争が新聞紙上を賑わしている時期に決定的となったのです。
私はその時高校三年で志望校は東大でしたが私の年度が丁度安田講堂事件で東大入試中止であったけれどそれ以前に受験勉強は中止して哲学、宗教、政治経済の学問研究に入ってた為、かえってザマーみろと喜んでいたものです。
 高校時代と言えば年度ごとに友達の関心が段々とテストの点取りだけに傾き家と学校をただ通って居眠りと飯だけを食って社会も世間も何も知らずに生きている有様と教師の無能ぶり、非人間性は腹だつ思いさえ感じ、これが大学、会社と表面的には変わっても本質的にはちっとも変わらない人生が果たして人間のなすべき事なのかと疑問さえ感じた。
 これから救われる事はただ遊ぶ事だけだろう。
 確かに教師は「大学へ行って遊べ。大学へ行かなければ何も出来ない」と生徒に言って受験勉強をさせたものだ。
 で、大学で遊ぶ事はと言えばスポーツや旅行は高級な趣味でマージャン・パチンコ・コンパ等遊びと言うより病みつきと言った方が適切だろう。
 それが社会に出れば病みつきという言葉自身高級な趣味で既に病んでいる状態なのだ。
 教科書は過去の歴史の人々が無知で野蛮で自由のない貧困な人々と教えてきた。
 本当にそうだろうか?本当に現代は自由で教養があって平等で文化的で進歩的かつ博愛に満ちた素晴らしい人達ばかりなのだろうか?
 確かにその様にみせている人はたくさんいる。又、その様になりたいと努力している人達も数多くみる。だがその様な人、その様に出来る人はこの世に何人いるだろうか?
 私は受験勉強をやめ本当の歴史、本当の社会の仕組みや社会の問題点を学んだ。
 日本は本当の意味では科学の分野においてはその歴史的形成がなくただ表面的な輸入型である為、逆に真の科学の発展に邪魔する様な教育方式が完全に社会全体を形造ってしまい、大学や国の研究機関は無能な教授や学者にとっては丁度よい温室となって正常な学問自体初めから何処にもなかったという実状なのだ。
 だからこそ戦争と結びつき戦後は企業と結びついてそれが高校、中学、小学校、はては幼稚園と波及してネコも釈氏もみな点取り勉強になってしまっているのである。
 本来なら国や企業は今の実状から見て秀才は敬遠したがるのが本当のはずだ。それが逆なのは秀才と点数で評価された人達程単純馬鹿で使い易いという事なんだろうか?
 そういう意味で医学部から発っした東大闘争は人道的な共鳴と合いまって学閥問題、メッキはがれの権威主義の毒々しさ等の怒りも吸収して、一方神聖な大学の分野まで食いこむ政治的疑獄が発端となった日大闘争は戦前派のイヤらしさの象徴も含めて心情的な運動が学生運動という言葉によって両者が統一拡大しその頂点となった東大安田講堂事件は将に日本の純粋な歴史の一断面を見る様であった。
 私はそれを始めから終わりまでテレビに食いついていたがテレビを見る時点では既に公平な報道は無理なのだろう。相当権力側の方に向いていた。カメラで見る限りそれは学生運動ではなくゲバルト光景であった。
 私は学生達が可哀想でならなかった。戦前派の人達はこれを見て学生運動というものを誤解するだろう。その行為は情のない親にオモチャを投げ捨てる様な子供の目に映ったかも知れない。
だがほとんどの学生は方法論においての賛否はともかくとして心情的に大きなショックを受け同情心が生まれるだろう。
 つまり、テレビに映った時点で戦前派と戦後派の時代がハッキリ断絶されたのである。
 私は法というものが恐ろしくてならなかった。少なくとも法を作り法を守る人達が機動隊の替わりに学生達と話し合うのが道理というものである。あの場に政治家や裁判官がいたのだろうか?
 あの場で機動隊と学生が攻防戦を行うのはオリの中に入れた猛犬と猿の様なものである。外から飼い主がけしかけなければ意外と仲良くしているかも知れない。互いに動物であり争う事自体両者にとって得する事はなにもないからである。
 機動隊が攻めなければ学生達は何もしないし、国が動かなければこれ程の問題本質を除れたバカ騒ぎも起きなかっただろうし、法でいく罪も犯さなかったのである。
 一体、誰がけしかけるのか?
 猛犬の前の猿はただ守備の為に戦うだけである。一番問題なのはこういう状況を作ったのは一体誰か?彼こそ真犯人なのである。この光景は飼い主にけしかけられて興奮した猛犬に半殺しにされている猿の哀れな姿だけなのである。
 これは今日形は違っても本質的にはまったく同じ様にして哀れな姿を写し出しているのが現代人なのである。そう感じないのは人によって順番が違うからだと言えないでしょうか。
 私はあまりにもそういう半殺しにされている人達を見続けてきた。それは悲しい現実の詩であり欺瞞的な指導者達への怒りの詩を描き続かされてきた。
 そう思うと現代は不自由で愚教養で不平等で魔文化的で退歩的で憎悪に満ち、土地も家も持てない貧困な社会として眼に映ってしまう。
 だからこの世界を見ると過去も未来も色メガネの様にそう見えてしまうのではないかと疑ってしまう。だがこの社会がそうだからと言って宇宙の真理が同じくそうだと思ったらそれは大きな誤りである。宇宙の真理は何時の世でも投影している。ゆえに宇宙を無視し、自然界に反抗している今の現代こそ過去の時代にはなかった最も愚劣な最悪な状態と結論づけられるのではないか!
 私はハッキリと述べられる。宇宙の真理の主体者は現代の政治家や裁判官と違って人々を真理に導かせようとするがゆえに人々との説得に既に降りてきているし、又降りようとしているのである。
 これは理論でもなければ観念論でもないし期待論でもない、現実論である。
 私が最初に奇妙で不思議な体験と言ったのはこの事に関係する。
 最近、幽体や霊体で天国や地獄を見てきてどうのこうのとブームになり始めましたが、そういう事は昔からたくさんの人達がその様な経験をしたりその能力を持っていたりして別段特別な事ではない。
 それはまだ魂の段階でゆえに輪廻や業の世界を見ただけです。もしそれを言うなら私などは何と言いましょう。霊体で見て来た世界は少なくとも普通の人では絶対に入れない処で人々の永生願っている様な処ばかりです。つまり歴史とは関係なく久遠より存在していると言った方が正しいでしょう。まあ時々現世的になって未来予知したり、死霊を悟らしたり、宇宙を飛んだり、様々な聖人に会ったり、龍の上に乗ったりしますがあくまでも現実界に戻ればいつもと変わらない生活。もともと私は生まれた時から運命と共に生きてきたから奇跡そのものの言葉はわからないし今だに不可能という壁にぶつかった事もない。それだけに我欲という言葉が最大の落とし穴であった。
 その私がなんで至難の道を自ら選んだのか?
 こう言っても読者の方は私を知らないと思うので折りにふれこの本の第三巻あたりでいづれ述べたいと思う。
 ところで事実は小説よりも奇なりと言われますが真実の世界はS・F小説よりもっと奇妙な事で私がこの四月に幽体でもなければ霊体でもなくこの身五体のままで体験した出来事はおよそ小説としても説明出来ない程の事であった。
 多分この小説を読んだ方はこの小説が単なる小説でない事がわかると思う。
 そして、それと同時にここに書かれている事が一体何処から知識を得ているのか疑問に思う方も少なくないと思う。
 この小説を既に一巻、二巻出した処で読者から私が宇宙人なのか?ブッタなのか?それとも神なのか?と思う人達が多く出ている状態からしてこの0巻はそれ以上に読者に興味を持たせると思う。
 恐らくこの本を読んで何も感じない人は、何の影響も受けない人は、この小説の中に書かれている様に最後において私の関係するところでもなくこの宇宙との関係もあり得ない。
 ただ御自由にどうぞというしかない。
 私はもともと小説家になるなど考えた事もなかった。今でもそうだがただ小説家と言われているに過ぎない。
 でも小説によって人々に何かを示そうとする事は確かに面白いし気楽である。
 そういう意味では多分これからも小説という形で述べていくと思う。

 小説を読まれた方を悩ましてもいけないと思うので少し述べておきますが信じる信じないはどうでもいいいのです。
 この小説は必ずしも真実ばかりとはいえないが
 今の社会や学問を真実と思うよりはこの小説に書かれている方を真実と思った方が救われるでしょう。
 この中の多くは私が日常体験をした事を私なりに才を持って小説的に再構成しているものであるし、私は既に未来を見て来ているのです。悪しからず。
 そんな事がありえるか!
 と御疑いの向きの人も先ずこの本を読んでから再一度この“落ち葉の落書き”を読んでもらってまだ納得がいかないという相当の猛者には一巻、二巻、三巻・・・・と読んで頂いてそれでもという人はきっと体験絶対主義だと思われるので、特別に体験してもらって納得してもらおうと思っている。
 ところでこの小説は時間と空間と質量の問題が大きく比重を持っているので多少ともこの小説の巻の構成が時間、空間とも様々に変わって普通の小説の様にはすんなりとは読めないかも知れませんが全体を読み終えた時に、各部分、部分が生きてわかってくると思います。
 そういう意味でこの小説は0巻でも一巻や二巻、三巻からでも自由に読み始められるようになっていてそれなりの味わいが出来るのです。
 そして、思考的に時間というものを平面的に、立体的につかめるようになってもらいたいと思っています。
 確実にやって来る未来の恐るべき世界のために。

 一巻は初めての小説だけにそれは、ギターを初めて弾く人がいきなりレコーディングをするという無茶苦茶な話だけれども友人を助けるという為に三週間で書きあげて校正も流す程度で出版してしまった事は、やはり色々と問題があって今でも赤面のする思いであるが内容自体は読者から好評で、ここでは現代社会の一面性から問題テーマを浮き出していてそれだけに身近な問題が読者に現実感を与えているからでしょう。
 二巻は現実面より多少ステップしてここで基礎的知識を気楽に理解してもらえるように筆を下しているし、既に小説家になりきっている作品です。
 三巻はやがて訪れる事件を通して人々の動きとそこにある真実の法を現実の社会に影響を与える位の力作に描くつもりで、ただいま思案中です。
 四巻は円盤に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?です。

 落葉の落書き・第三巻に続く
 一九七七年九月二十日 著者記す