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※上野彦馬という長崎の写真家のスタジオで撮影された有名な龍馬のショット

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。

土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。満31歳没。

小学生か中学生頃だったか、武田鉄矢原作の漫画「お〜い!竜馬」から始まり、高校生の時に司馬遼太郎の長編時代小説「竜馬が行く」を読破してからは、完全に龍馬ファンになりました。

そして世界を股にかけた海運貿易業の原点である「亀山社中」にも憧れて、大学は商学部の貿易学科に入ったほどですが、現在所用ついでに、ようやく龍馬ゆかりの地の1つである念願の長崎へと訪れることが出来ました。

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※グラバー園より長崎の港を望む

龍馬が初めて長崎を訪れたのは、今から150年近く前の元冶元(1864)年2月といわれており、その翌年、龍馬がここ長崎に亀山社中を創設し、海運業を行いながらイギリスの武器商人トーマス・グラバーの支援もあって薩長同盟を成立させました。

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※トーマス・グラバー

グラバーの邸宅は、今も“旧グラバー邸”として長崎の観光名所の1つ「グラバー園」の中に残されていますが、このグラバー園の中には、普通の観光客が訪れると一瞬「何これ?」と疑問に思う場所があります。

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※フリーメーソン・ロッジの石柱

それが「フリーメーソン・ロッジの石柱」という住宅の門に使われている石柱であり、これは現地の案内図でも堂々と「フリーメーソン・ロッジの石柱」という名前で表示されています。

「この門は、松ヶ枝町47(旧小曽根町海岸通り47番)の住宅出入口の門です。柱頭の彫刻は、フリーメーソンのマークで石工(メーソン)の使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。
 使用された石材が開港初期に居留地で盛んに使われた天草石であり、1865年(慶応元年)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメーソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてマークをかかげたものと思われます

(注)フリーメーソンとは、中世ヨーロッパの石工の職業団体に始まり、それを母体に18世紀初めイギリスで結成され、啓蒙主義精神のもとに博愛・自由・平等の実現を目指す世界的規模の団体です。」

石柱の脇に上記のような説明文の書かれた看板が設置されていますが、それでも、多くの観光客が普通に通過する順路の中に組み込まれているポイントであり、自分が訪れた時も横で普通のおばちゃん達が「フリーメーソン?」と声に出して疑問を持たれていたので、妙なところでフリーメーソンの認知が広まっていることを感じました。

もっとも、ここで伝えられているフリーメーソンは、陰謀論者の中で出て来る“イルミナティ”などの世界征服を企む秘密結社の組織とは真逆であり、人類の平和と繁栄を願う慈善団体のように紹介されているので、これを見たところで急に陰謀の世界、はたまた真実の世界に目覚める人は、ほとんどいないとは思います。

それはさておき、果たしてグラバー本人が直接フリーメーソンのメンバーだったのかどうかは知りませんが、歴史上のあらゆる革命には、彼らフリーメーソンの存在が必ず背後にあるので、この明治維新という日本の革命的な出来事の背景にも、間違いなく彼らが絡んでいるとは思われます。

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ところがまた、これが完全に外国勢による強制的な開国、日本乗っ取りの革命であったかといえば、実はそんなこともないようで、この“明治維新”の裏には、日本の中の秘密結社のような組織が大きく関与していたのも事実のようです。

というよりも、この明治維新こそが、現在の日本の流れを汲む“大和朝廷”と、それに対抗する“出雲族”との1000年以上に渡る争いの1つの終着点であったようです。

現在の日本は、1000年以上も前に日本を統一した“大和朝廷”の流れを汲んでいますが、この大和朝廷による統治を受け入れず、その支配を逃れて山野に隠れた「海人(出雲)の国」の人々が中心である“サンガ”は、現在までも大和朝廷(現在の日本)に敵対し、隙があれば常に国家転覆を画策していました。

そして、大和朝廷に敵対する者たちから天皇家守る裏の存在として組織されたのが“闇の八咫烏”と呼ばれる人々の存在であり、両者は歴史の主要な舞台で1000年を超える争いを続けています。

また、大和朝廷に敢えて逆らう事をせずに、人知れず大和朝廷に融け込み、気配を絶っていったのが、いわゆるユダヤの外来系の“フリーメーソン”の人々であり、彼らの源流は近代ではなく、1000年以上も前の“倭国”“秦氏”で、明治維新の裏舞台には、この3つの組織による権力闘争があったようです。

その件については、今年7月号の「ザ・フナイ」にて詳細を書きましたので、その一部を下記に転載しておきます。

争いの決着がついた明治時代
これらサンガと闇の八咫烏、秦氏の「三つ巴の争い」に決着が着いたとされているのが、明治時代の始まりの頃となります。

約260年続いた「徳川幕府」が倒され、明治政府による近代日本の“幕開け”となった「明治維新」ですが、これは、実際は「クーデターによる政権の確立」と呼ぶ事の方が正しいと思われます。

まず、明治維新に関係することとして有名なのが「大政奉還」です。

これは「坂本竜馬」の発案である「船中八策」の1つであり、それを土佐藩主の「山内容堂」が幕府に提言し、それを聞いた「一橋慶喜」の英断で実現させました。

これにより“政治の主導権”が天皇陛下に返されることになったのですが、それを受けた「明治天皇」は“政治に精通していない”ことを理由に“元将軍”である一橋慶喜に補佐するよう依頼をしたといいます。

そのことにより、“元将軍”である一橋慶喜は、現在の「内閣総理大臣」に就任する事になったのですが、それを“良し”としない「薩摩・長州連合」が明治天皇に対して幕府への武力討伐を主張し、それを強く明治天皇に迫った「岩倉具視」は宮廷を“追放”となりました。

それでも「勝てば官軍」の言葉通り、明治天皇を蔑ろにしたまま進んだ武力討伐は成功し、徳川政権を倒した「薩摩・長州連合」、特に「長州」が武力を背景に“政府”と“軍隊”(この当時,軍隊には海軍が存在せず,陸軍のみであった)を掌握しました。これが「明治維新」にまつわる“表の歴史”となります。

しかし、この日本史上の最大の転換期においても、やはり、その“裏”ではサンガと闇の八咫烏、そして秦氏との間での「三つ巴の争い」が繰り広げられており、今回の争点の中心は、明治天皇を巡る激しい戦いでした。それが、昨今における「明治天皇は2人居た」と噂される元となっています。

先ほどもお伝えしましたが、「大政奉還」を受けた明治天皇は“政治に精通していない”ことを理由に一橋慶喜に内閣総理大臣に就任するよう依頼しました。

そして、それに反対した岩倉具視や「薩摩・長州連合」らは,当初“賊軍”として扱われたのですが、途中から岩倉具視が“復権”したことを境に「薩摩・長州連合」が“官軍”へと変わっています。

なぜ明治天皇から“排除”された岩倉具視が“復権”することができ、なぜ「薩摩・長州連合」が“賊軍”から“官軍”になれたのでしょうか?

その背景には、闇の八咫烏、サンガ、秦氏が関わっています。天皇家はもちろん、徳川家である幕府も闇の八咫烏が関係していましたが、実はサンガと関係していたのが長州でした。また、闇の八咫烏は当初は、薩摩とも関係していた形跡があり、そのため幕府の命を受けてサンガと関係していた長州の討伐にも参加しています。

しかし、途中から坂本竜馬の働きで薩摩が長州と手を握ったために、闇の八咫烏は働き掛ける(関係する)相手を土佐に変えて行ったようです。この“裏”には「公家」、その中でも特に岩倉具視と深く関係していたといわれる秦氏の“暗躍”があったとされています。

そして、明治天皇を“亡き者”にしようと画策したサンガと、何としても明治天皇を守ろうとする闇の八咫烏との間で激しい戦いがあり、この“闇の戦い”によって本来の天皇陛下(1人目の「明治天皇」)は“亡き者”となってしまい、そして、闇の八咫烏や岩倉具視らによって意図的に作られた天皇陛下(2人目の「明治天皇」)に引き継がれたと言われています。

つまり、明治維新とは、大和朝廷の転覆を長年画策していたサンガによるクーデターが、初めて実現した歴史的な出来事であったのです。

これにより、正当な天皇家の血筋は絶たれたとして、一定の目的を果たしたサンガが“表の世界”に出てくるようになりました。

特に明治維新によって“政治体制”が大きく変り、中でも「邪魔者は消す」といった過激な思想を持つ長州中心の政治が始まったことで、それが第二次世界大戦前までにおける“陸軍の暴走”を呼び、最終的には第二次世界大戦にまで至りました。

しかしサンガが政権を握った時代は、明治から大正時代の中期までであり、そこから昭和に至るまでに、少しずつサンガの表世界での衰退が始まり、昭和天皇の時代には、再び闇の八咫烏へと主導権は移っていました。

そこで、サンガを完全に解体するために仕組まれたのが、第二次世界大戦でした。これもまた、その“裏”ではアジア圏を掌握したいとするフリーメイソンの暗躍と、フリーメイソンに繋がる秦氏が、日米双方の国内において第二次世界大戦に参戦するように動きかけていたと言われており、ここでも「皇室の存続」や“利権”をめぐってサンガと闇の八咫烏、そして秦氏(主として「フリーメイソン」)の「三つ巴の争い」が再びあったと言われています。

そして、第二次世界大戦の敗戦によって明治維新後から続いた長州政治も完全に終止符が打たれように見えたのですが、実はそう簡単に済む事ではなかったようです。

確かに“軍隊”(「長州」中心の“陸軍”と「薩摩」中心の“海軍”)は“占領軍”である「GHQ」によって解体されましたが、行政の中枢である“官僚機構”まで解体したのでは「統治国家」として成り立って行かず、それでは「GHQ」も「占領政策」を遂行する上で非常に困ってしまう事と、秦氏と関係のあるフリーメイソンの利害を反映してか、「官僚組織」だけは解体せずに残されました。

そのために明治維新以降の日本の政治は、「官僚政治」(「長州政治」)と呼ばれる体制が現在まで面々と続き、既に100年を超えています。

そして、明治天皇の“死”をもって事実上の「三つ巴の争い」は一定の決着がついたことになり、現代では表だった争いは少なくなったものの、それでもサンガと闇の八咫烏、秦氏の争いに終わりは無く、近代においては争いの舞台を“政界”から“経済界”に変えて今でも継続されていると言います。

しかし、統合の時代へと入った近年において、この三者の関係も大きく変化し始めているのもあるようです。

大和朝廷設立の時には、成し遂げることが出来なかった三者の同盟が、1000年以上の時を越えて、現代で再び統合されようとしています。

日本の歴史を作ってきた「三つ巴の争い」が終わり、反対に、この三者が手を結んだ時にこそ、本当の日本の時代が始まるのかもしれません。(転載終了)

伊勢と出雲、秦氏と物部氏、弥生と縄文の和合、日本を取り巻くあらゆる二極化の統合が今年は急速に進んでおり、世界のひな形である日本が、本来の姿に戻って再スタートが切られようとしています。

テレビや新聞を見ているだけではわからない水面下の動きは、本当に驚くべきほど急展開を迎えており、明治維新の時のように、多くの人々が知らぬ間に歴史的な大転換の時を近いうちに迎えようとしています。

ただし、今回は明治維新という規模でなく、地球全体が大きく大転換する時であり、多くの人達が伝えているように、まさに“地球維新”のタイミングです。

本当の日本、本当の地球、本当の地球人とは・・・昨日までの常識が“非常識”となる日も、そう遠くない時期に差し迫っているのを日々感じます。