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元伊勢とは
「一説によると、2千数百年前とも3、4世紀頃ともいわれているが、それまではアマテラスは奈良県の大和地方の天皇の皇居内にお祭りされていたんだ。」
「それが崇神天皇の6年に飢饉や疫病がはやり、民が大勢死んだり、国を離れる者が続出したり、争いがおこったりと悪いことがおきたので、天皇はこれはたぶん神の祭り方にあやまりがあったのではないかと思われて、神の威をおそれて皇居の外でアマテラスをお祭りすることにされたんだ。」
「そこで崇神天皇の娘の豊鍬入姫命といわれる皇女が神の御杖代となって…御杖代というのは、まあ、神さまのお使いだな。この方が初代斎王さまだ。で…この豊鍬入姫命が、倭の笠縫邑という所で天皇のかわりにアマテラスをお祭りされた。」
「ところが、その後、京都や和歌山など各地でアマテラスをお祭りされたあと、再び倭にもどってこられた。その後、垂仁天皇の御世に、その役目を姪の倭姫に託された。倭姫は、アマテラスを祭るのにふさわしい地を探し求めて旅立たれた。」
「神意のままに、近畿各地をはじめ、岐阜や名古屋をまわったあげく、三重県の伊勢にたどりついた。天照大神も、この伊勢の地をたいそう気にいられて、ここを永住の地と定め、やっと落ち着かれた。これが今の伊勢神宮だ。」(「アマテラス 倭姫幻想まほろば編」より転載終了)

 天照大神を祭る神宮が、三重県の伊勢に鎮座する以前にあった場所を“元伊勢”と呼び、諸説はあるものの、一般的には、この元伊勢の数は全国に約25ヶ所あるといわれ、その始まりは、奈良県桜井市の“三輪山”の北西にある「桧原神社」であるといわれています。

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※三輪山

そして、この元伊勢の始まりの舞台である“三輪山”とは、見た目は三角錐のピラミッドのような山であり、古くは縄文時代から原始信仰(自然物崇拝)の対象の山であったとされ、山の麓にある「大神神社(おおみわじんじゃ)」は、三輪山をご神体として主祭神「大物主神(おおものぬしのおおかみ)」をお祀りしています。

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美内すずえさんの漫画「アマテラス」には、通常のストーリーとは別の番外編のコミック本「アマテラス 倭姫幻想まほろば編」があり、この中で元伊勢、および三輪山について詳しく描かれていますが、そこでは三輪山の神様「オオモノヌシ」に関連するキーワードとしては、一般的には知られていない「ニギハヤヒ」「ムー帝国王」という言葉が出てきます。

「ニギハヤヒ」とは出雲の王であり、また「ムー帝国王」の末裔も出雲の王でもあり、この2つ関わる言葉としては完全に“出雲”であり、なぜ大和朝廷の原点である元伊勢の始まりの三輪山で“出雲”が頻繁に出てくるのかといえば、これらは単純に元伊勢以前にこの地に関わっていたキーワードであり、結論からいえば、この三輪山周辺は、大和朝廷が成立する以前、つまりは元伊勢の時代よりももっと古くから、この地を治めていた出雲族の聖地の場所であったようです。

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※かつて出雲村が栄えていた“ダンノダイラ”

その証拠に、三輪山近郊には“奈良県桜井市出雲”という地名があり、そこには“ダンノダイラ ”と呼ばれる、かつて「出雲村」が存在していた跡地が残っています。

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※いくつもの巨石がそびえ立つダンノダイラ

そこは縄文時代の古代人の出雲民族が生活していた巨大な磐座や祭祀場が今も残っており、一般的には「アマテラス」「大和王朝」と縁が深い地域として知られている奈良県桜井市ですが、一歩三輪山近郊の奥地へと入ると、それらとは異なる一面がいくつも存在しています……。

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※三輪山の登拝口

その理由は後述するとして、2014年3月21日の「春分の日」、この時代の切り替わりのタイミングの日に奈良県桜井市の三輪山へと初めて訪れました。

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前述したように、古代より三輪山は神の鎮座する山、いわゆる「神奈備(かんなび=神をまつる神聖な場所)」として位置づけられいて、明治に渡るまで「神域」として一般の入山は禁止とされていましたが、現在も登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、入山中は撮影・飲食は禁止で軽率な気持ちでは入山することは出来ないようになっております。

なぜ、今の時期に三輪山へと訪れたかったといえば、最近になって目で見る耳に聞くキーワードが“オオモノヌシ”ばかりであり、最大の目的は、やはり“オオモノヌシ”へご挨拶と“鎮魂”をすることでありました。

“鎮魂”、つまりは人の魂を鎮めることであり、その理由は三輪山にまつわる血塗られた過去の歴史をひも解かなければならないのですが、その詳細については新刊本『これから10年「世界を変える」過ごし方』「空白の4世紀」という章に書いてあるとおり、日本初の統一政権である「大和朝廷」成立の経緯を遡らなければなりません。

「なぜ、元伊勢が始まったのか?」「なぜ、伊勢の地にたどり着くまで25カ所も遷宮されたのか?」「なぜ、明治天皇になるまで天皇は伊勢神宮を参拝しなかったのか?」の不可思議な疑問が現代日本の始まりである大和朝廷成立の経緯にはありますが、その答えは、歴史につきものの名言である「歴史は勝者によって作られる」の一言によって解決するものであり、私たちが教わってきた教科書の歴史とは、すべて時の権力者達が自分達の都合の良いように真実を隠蔽して作り出した史実です。

空白の4世紀
● 五大勢力が統治していた古代の日本

 その仮説の舞台となるのは古代の日本、特に「卑弥呼」がいた時代の話であり、これは「空白の4世紀」に入る前の3世紀頃までの話です。

この頃の日本は、まだ現在のように1つの統一国家が存在していたわけではなく、当時の日本には「国」(自治が及ぶ範囲)を指して「州」と呼ぶ習慣があったようで、その数は一説によれば60以上の「州」が存在していたとされています。

しかし、実質的にはとても「国」と呼べるようなレベルではないものが多く含まれていたようで、その実際の数は3分の1程度の20州前後であったとも想像されています。

それら「州」の中でも、特に大きな「国」として認知されていたといわれているのが、次に挙げる「五州」だそうです。

①「邪馬台国」(やまたいこく:源流を中国系渡来人に置き「日向族」とも呼ばれる)
現在の北九州から熊本(阿蘇や高千穂地方)にかけて存在したとされる「州」で、「女王・卑弥呼」が住んでいたとされる「邪馬伊都国」や五島列島などを勢力下に置き、その「都」は北九州・福岡付近にあったとされるが、その「州」の主である「女王・卑弥呼」は「都」に置かず、人里離れた高千穂地方の山間に住まわせて、一般の人々とは隔離していたとされる。

※1.「邪馬台国」や「卑弥呼」などと言う呼び名は「魏志倭人伝」や「中国正史」などの中で、日本を“蔑む言い方”の1つとして作られた“当て字”であり、本来であれば「邪馬台国」は「大和大国」と書き、「卑弥呼」は「日巫女」と書くことが正しいともいわれている。

※2.「卑弥呼」とは「太陽神(天照大神)に仕える巫女」であることを示す言葉であり、後の「伊勢神宮」における「斎宮」へ繋がるので、単に「卑弥呼」と呼んだ場合には「官職名」を言っているのであって、一個人を指す固有名詞や名前などではない。


② 「海人国」(あまのくに:源流を韓国系渡来人に置き「出雲族」とも呼ばれる)
山陰を拠点にしていたとされる「州」で、韓半島の南端に位置する地域(歴史上では「百済」と呼ばれている「国」)や対馬、壱岐島などの島々、また能登から上越付近までを勢力下に置いていたとされる「州」で、その「都」は出雲にあったとされる。

※1.対馬や壱岐島などは,本来その島1つが1つの「国」であり、その中でも対馬は“男性シャーマン”を、壱岐島は“女性シャーマン”を数多く輩出した島で、基本的に「卑弥呼」と呼ばれる“シャーマン”は、この“壱岐島”出身であり、その上で周り(“壱岐島”の“シャーマン”)に認められた女性の中でも、特にその能力が高いとして認められ、選ばれた“貴女”しかなることを許されなかったといわれている。その中で「卑弥呼」から「卑弥呼」へと継がれる“一子相伝”と呼ばれるような“継承”が為されていた。
そして、この両島共に「邪馬台国」や「出雲」とも縁(関係)が深いだけではなく、地域的には離れているが関東とも関係があったといわれ、特に“壱岐島”は「伊豆」との“縁”が深かったといわれている。

※2.「伊豆」(いづ)の語源は「出雲」(いづも)だと言われており、この「出雲」の“音読み”が変化した名称が「伊豆」であることから「伊豆」と「出雲」は同義語であるとされていて、その当時「伊豆」と言った場合には、往々にして「出雲」を指していることが多いといわれている。


③ 「倭国」(やまとのくに:源流を中東の「ハッタイト」に置き、「秦氏」と呼ばれる)
現在の和歌山付近を拠点にしていたとされる「州」で、近畿および中部地方(岡山県から和歌山県、三重県や愛知県などの範囲)にかけて勢力下に置き、その「都」は現在の「堺」付近にあったとされる。

※1.「ハッタイト」は、中東地域(エジプトやトルコなど)においてピラミッドの建設や今の技術を持ってしても建築が不可能だとされる神殿などを造ったと言われている民族で、ユダヤ12支族(北イスラエル王国10部族と南ユダ王国2部族)の1つを構成する部族であるともいわれており、“頭脳集団”や“技術集団”としての流れを色濃く残す民族であるとされている。

④ 「日本国」(ひのもとのくに:源流を韓国系渡来人に置き「日本族」と呼ばれる)
群馬西部から埼玉北部を拠点の中心に置く「州」で、関東一円から信州・甲州の地域を勢力下に置き、その「都」は現在の群馬県の「甘楽・富岡」付近にあったとされる。

※1.この「日本族」を同じ祖先を持つと思われる「出雲族」とを区分するため、一般的には「出雲族」の源流を“韓国系渡来人”と表現し、それと区分する意味で「日本族」の源流は“古代・高句麗人”であると表現する場合もある。何れにしても、日本に渡来し、土着した年代が「出雲族」よりも古いとされるため、一説には「秦氏」の流れを汲む民族の可能性もあると言われている。

⑤ 「蝦夷国」(えみしのくに:源流を「秦氏」に置き「蛮族」と呼ばれることも多い)
宮城付近を拠点に置く「州」で、現在の東北地方全域を勢力下に置き、その「都」は「塩竃」付近にあったとされる。

※1.この一族は「倭国」と同じく「秦氏」の流れを汲むとされるが、源流は「ハッタイト」ではなく、同じユダヤ12支族の1つを構成するのといわれている「ヒッタイト」であり、その基本は「ハッタイト」が“頭脳集団”としての要素を持つのに対し、「ヒッタイト」は“戦闘集団”としての色が濃く、イスラエルや白系ロシアの流れも汲んでいるため、全く別の民族だとも言える。同時に古来の「日本人」と分ける意味で「蛮族」と呼ばれたとされる。

※2.「蝦夷国」と表現した場合に、一般的には純日本民族である「アイヌ」を連想されやすいが、実際は全く別の民族であり存在でもある。

これらの「五州」の中で最も勢力が大きかったと言われているのが「日本国」であり、軍事力においても他を圧倒する勢力を誇っていたそうです。

しかし、不思議なことに、理由は定かではありませんが、その頃の「日本国」は今で言うところの「※モンロー主義」をとっていたといわれています。

※モンロー主義
→1823年にアメリカ合衆国第五代大統領のモンローが出した宣言に由来するアメリカの外交原理の一つであり、いわゆる孤立主義のこと


それに対し、一途に勢力の拡大を図っていたのが「邪馬台国」と「海人国」であり、毎日のようにどこかで小競り合いが起きていたといわれますが、両国とも正面から衝突(戦争)することだけは、お互いに避けていたような“節”があったとされています。

それとは対照的に、あくまでも表面的な姿勢ではあると思われますが、「※日和見主義」をしていたとされているのが「倭国」や遠く離れた「蝦夷国」などであったといわれており、いずれにしても、これらの国々は絶妙な“力関係”のバランスの上に成り立っていたようです。

※日和見主義
→ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利なほうにつこうという考え方のこと


● 幻の都となった纏向京

 ところが、突然このバランスが崩れるような“異変”が起きました。今まで覇権争いをしていた「邪馬台国」と「海人国」が、ある時期を境に和議が急に進み、その結果「倭国」を入れた3国による同盟が成立したのです。

この“同盟成立”の立役者は「倭国」だと言われ、「倭国」が仲を取り持つ形で進められたと言いますが、その裏では両国に精通し、共に深い繋がりを持つ“対馬”と“壱岐島”が大きく関与していたという話もあります。

そして、この同盟を更に強固にするために3国による話し合いが何度も持たれ、そこで決められたことが「互いに姻戚関係を結び、更に同盟関係を発展させて“共和国”を樹立する」ということであったそうです。

その中で、この共和国の「“都”をどこに置くか?」が、大きな議論の的となり、結局話し合いの中で、互いに争っていた経緯を持つ「邪馬台国」と「海人国」の勢力の範囲内に置くことを避け、両国からなるべく遠く離れた場所であり、かつ何かあった場合でも“それぞれの安全”が保てる(逃げる事ができる)中立的な立場の場所に「都」を置くことが決められ、最終的にそれは「倭国の中」に置くことが決まりました。ただ、それでも「倭国」の「都」の傍に置くことは避けられ、一定の距離をとった場所になったといわれています。

また、それとは別に「都」を「倭国の中」に置くことにした理由としては、最終目標である“日本統一”を実行する上では、そこに置くことによって得られる“経済性”や物資輸送などの“地理条件”などを考慮したことも、選択要因の1つになったといわれています。

それらの結果、3国の協議によって最終的に選ばれた場所が現在の奈良県桜井市付近で、その「都」は「纏向京(まきむくきょう)」と名付けられ、それ以前には類を見ないほど大きな規模と豪華さを誇ったといいます。

しかし、その「都」は“日の目を見る”ことなく“ある事件”をきっかけに造成途中で廃棄されてしまいました。

その“ある事件”とは、「邪馬台国」の司祭(表向き「卑弥呼」が「女王」であったため「王」とは名乗っていませんが、実質的にはこの司祭が「王」であった)の裏切りによって、「海人国の王」である「大国主命」が“騙し討ち”に合い、殺されてしまったのです。

さらに同族で「海人国の后」となった「伊都」(この時の「邪馬台国の女王・卑弥呼」)までもが、女性器を破壊されるなどの惨い殺され方で殺害されてしまったようです。

この当時、「呪い」を掛けることが出来るのは、基本的に女性だけてあり、生きている女性であっても、死した女性であっても、女性器を使って「祟りのような呪い」が掛けられると信じられていたそうです。そのため、この後女性の「霊力」を恐れ、その力を封じるために、女性を「不浄の者」と位置付け、神聖な場より遠ざけるようにしたそうです。

いずれにしても、これら一連の事件をきっかけに3国による「同盟構想」そのものが根底から瓦解してしまいました。

● 祟り神を祀る神宮

 このようにして、「3国同盟国家」から一転して「専制国家」へと変貌を遂げた「邪馬台国」ですが、実権を握った祭司がその力を確固なものとするために、改めて自身を「天照大御神の写し身である」と名乗り、「卑弥王」(女王「卑弥呼」に代わる「王」の意味で付けられた名称)として王座について築いた王朝が「大和朝廷」でした。

その都は大和の地に置き、そして「海人国の王・大国主命」の“祟り”を恐れ、その“怒り”を鎮めるために「大国主命」を「大物主」という名称で「神」として「三輪山」に祀り、その麓にあった大神神社(おおみわじんじゃ)に神宮を開いたそうです。これが現在の「伊勢神宮・内宮」の起源となっているようです。

また、その時の「邪馬台国の女王・卑弥呼」の“呪い”を恐れて「伊都」を“封印”したとされている場所が、今も奈良県桜井市に残る「箸墓古墳」であるようです。

ただ「祟り神」を側に置きたくないことと、刃向かう「出雲族」を討伐しながらその地を鎮めるために、卑弥王は神宮を点々と移すことをしたようで、これが遷宮の始まった理由であり、そして最終的に現在の伊勢の地に落ち着いたようです。

そのため、現在の「伊勢神宮・内宮」に祀られている“御祭神”は、実は「大物主」であり、伊勢の地が「都」から遠く、山々で隔てられた場所であるのもそれが理由の1つであるともいわれています。(転載終了)

自分自身、日本という国は大好きであり、現在の天皇制を含めて今の国家そのものを全面的に否定するつもりもありませんが、大好きな国だからこそ、やっぱり本当の姿を知りたい一心であり、何が真実であるかはこの目で直接見ないとわかりませんが、今まで隠してきたこと、誤摩化してきたことがあったのなら、誰が悪いとかではなく、今気づいた人々が過去の先人達のあやまちを謝罪し、そしてどんな過去も包み込んで新しい日本を作り出すことを宣言する時期であると思います。

その究極の原点である三輪山には、いつか必ず訪れたいと思っており、結局タイミングとして今年の春分の日となりました。

裸足で山頂まで登り、1つ1つの磐座に気持ちを込めてお祈りをしましたが、祈る度に空模様が頻繁に変わり、時には雹(ひょう)までが激しく降りつけたりと三輪山の神様はわかりやすく応えてくれました。

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※八岐大蛇

本当に怪奇現象のオンパレードだった三輪山、奈良の滞在だったのですが、詳細はまた別でお伝えするとして、不思議な流れから、なぜか最終的に手元にやって来たのは強烈な“龍”であり、この“龍”の絵をお持ち帰りすることになりました。

それは三輪山の麓で書かれた「八岐大蛇」というタイトルの絵でありますが、背景の中央右側には“三輪山”がうっすらと描かれており、また、たくさんの“龍”と一緒に半透明の“ドーム”も1つ描かれています。

説明によると“ドーム”とは“龍”の住む家であるようで、それを聞いてなぜ自分が今のタイミングで“ドームハウス”を作り、そして日本、世界中にドームハウスを普及させようとしているかが良くわかったような気もします。

この“龍”が、一般的に「蛇(み)ぃさん」と呼ばれている三輪山がご神体の「オオモノヌシ」なのかどうかはわかりませんが、三輪山の“龍”が側に来てくれたことは、とても心強く、そして大きな力になってくれるのだと感じています。

いずれにしても、これから先は今まで表に出ていたものが退き、今まで眠っていたものが目覚めて表に出て来る時代になると思います。古代人、縄文の文化や叡智、眠っていた神様や龍神様が表に出たり、またその反対もあったりと……。

個人的な気持ちでは、そのスイッチを三輪山で押してきたと思いますし、全国各地、世界中で同じようなことをやっている人々が春分の日には多くいたようなので、これから先、大きく日本も世の中全体も変わってくると思います。