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丹後一宮の「元伊勢籠(この)神社」。先日の関西ツアーでも大事な場所の1つとして訪れたポイントとなる神社です。

日本三景の1つである京都の天橋立にある籠神社は、古い元伊勢の地として有名です。

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元伊勢
元伊勢(もといせ)は、三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮(皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前に一時的にせよ祀られたという伝承を持つ神社・場所。
伊勢神宮内宮の祭神・天照大御神は皇祖神であり、第10代崇神天皇の時代までは天皇と「同床共殿」であったと伝えられる。すなわちそれまでは皇居内に祀られていたが、その状態を畏怖した同天皇が皇女・豊鋤入姫命にその神霊を託して倭国笠縫邑磯城の厳橿の本に「磯堅城の神籬」を立てたことに始まり、更に理想的な鎮座地を求めて各地を転々とし、第11代垂仁天皇の第四皇女・倭姫命がこれを引き継いで、およそ90年をかけて現在地に遷座したとされる。遷座の経緯について、『古事記』ではこれを欠くが、『日本書紀』で簡略に、『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく、そして中世の『倭姫命世記』においてより詳しく記されている。
外宮の祭神である豊受大御神は、『古事記』『日本書紀』に記載を欠くものの、『止由気宮儀式帳』や『倭姫命世記』によれば、第21代雄略天皇の時代に天照大御神の神託によって丹波国(丹後国)から遷座したと伝えられている。
天照大御神が遍歴する説話は、『常陸国風土記』の筑波山の話に登場する祖神や民間説話の弘法大師伝説に類するものとされる。一般の神社の縁起でも鎮座地を求めて神が旅する話は多いので、「旅する神」の典型的な類型であるとされる。(転載終了)

籠神社は、単なる古い元伊勢の地としてだけ有名な神社ではなく、日本最古で国宝となっている「系図」が出てきた神社としても有名です。

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籠神社を代々守り繋いでいるのが海部(あまべ)家の宮司であり、現在で82代目の海部宮司となるのですが、祖神である「天火明命(アメノホアカリノミコト)」は、今の天皇家の祖神にもあたる「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の兄であり、そういった意味では天皇家とは親戚関係にあるような家系であって、日本の神社の中でも特別で格式高い神社となります。

むしろ、海部家に伝わる伝承の中でも、現在の天皇家の元である大和朝廷の祖先の神武天皇に「国譲り」をした側としての記述もあるので、そういった意味では祖神が天皇家の兄の家系というだけでなく、本来の“ヤマト”の地を治めていたのは、自分たちの家系・祖神であり、今の天皇家よりも古い家系という思いもあるのかもしれません。

そんな伝統ある籠神社は、この国宝の系図が有名ですが、籠神社の裏にある奥宮「真名井神社」もまた非常に人気のある神社であり、スピリチュアルな世界で一躍有名となった“噂の石碑”のある神社です。

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それが、かつて地中に埋まっていた古い石碑を掘り起こして新しく作った石碑があり、これには真名井神社の由緒が彫られているのですが、上部には、なぜかイスラエル国旗のシンボルと同じ「六芒星」が刻まれています。

この六芒星は一説によると籠神社の裏神紋とも呼ばれていますが、本当の真相は謎に包まれています。

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とはいえ、籠神社は「籠(かご)神社」とも読め、籠の目は六芒星でもあるので、やはり籠神社と六芒星は深く関わりがあるものとみなされています。

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ただ、この有名な石碑も現在のイスラエルとの関係や日ユ同祖論、はたまた本当の日本の古代史がわかってしまうことを恐れてか、残念ながら現在は三つ巴紋のシンボルに修正されており、真名井神社の六芒星のシンボルは今となっては伝説のシンボルとなってしまいました。

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※上が古い絵馬で下が新しい絵馬

また籠神社に話が戻ると、ここの「絵馬」もまた知る人知る絵馬として有名であり、ここにも六芒星の中に日月が入った特殊なシンボルが描かれていたのですが、これもまた近年では六芒星が消されてしまい、今は海部家に代々伝わる神宝の鏡が代わりに描かれています。

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※左が「息津鏡(おきつかがみ)」で右が「邊津鏡(へつかがみ)」

この神宝の鏡は、今から2000年ほど前の漢の時代のものであり、大きな鏡が「息津鏡(おきつかがみ)」(学名:内行花文長宜子孫八葉鏡)という名前で、小さな鏡が「邊津鏡(へつかがみ)」(学名:内行花文昭明鏡)という名称になります。

どちらも「八芒星」の模様であり、息津鏡に至っては学名に「八葉(やつは)」が入っているので、個人的にはとても興味深い神宝であります。

ところで、間違い探しではないですが、古い絵馬と新しい絵馬には、もう1つ大事な変更点があったのにお気づきでしょうか?

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それは両方とも海部家の祖神である「天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)」という男性神の姿と名前が描かれていますが、古い絵馬には「天照国照彦火明命(饒速日尊=ニギハヤヒ)」と書かれているのです。

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※秋田にある物部家の唐松神社から出てきたニギハヤヒの肖像画

つまり、籠神社の祖神である「天火明命(彦火明命)」とは、別名「ニギハヤヒ」と呼ばれた神様であり、ニギハヤヒといえば、日本の神話で登場する神武天皇にヤマトの地を「国譲り」した本来のヤマトの地の統治者でした。

ニギハヤヒという人物は、ニニギの兄弟であるニギハヤヒから始まり、その息子とその孫の三世代に渡って同じ名前を世襲して存在していたようで、その三世代目が、統一王朝のニギハヤヒであり、これが“男性神”としてのアマテラスである「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と呼ばれた籠神社の祖神のようです。

そして、その時の后が「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であったとも言われています。

そうすると、籠神社の絵馬に書かれた男女の神々は、男性は「ニギハヤヒ」であり、女性は市杵島姫ではなく「セオリツヒメ」であるも言われています。

以前までは、六芒星のシンボルや月日のマークと一緒にニギハヤヒの名前までは表に出していましたが、さすがに今は様々なシンボルもニギハヤヒの名前も表向きは隠し、セオリツヒメは昔から名前さえも出していなかったようです。

ただ、籠神社や真名井神社というのは、このニギハヤヒとセオリツヒメの二神と非常に縁が深い神社であり、多くの秘密が隠されている大事なポイントであると思います。

日本で最もポピュラーでありながらも、多くの謎に包まれている童謡「かごめかごめ」の歌がありますが、一説には、この歌にも籠神社やニギハヤヒに関わる秘密が隠されているとか・・・。

かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる 
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ

この歌に出てくる「かごめ」は、前述した「籠の目(籠目)」であり、六芒星のシンボルのことを意味していて、次の「籠の中の鳥」というのは、まず「籠」「籠神社」を指して、その中に閉じ込められた「鳥」というのは「封印された神」の意味であり、つまりは「籠の中の鳥=籠神社に封印されたアマテル神(ニギハヤヒ)」であるとも言われています。

七福神初夢図r20 鶴が稲穂を-天保年間の初夢用宝船絵

この封印が解かれるために必要なのが、次の「夜明けの晩に鶴と亀が滑った」というフレーズですが、ここの「鶴」を意味するのが伊勢の「伊雑宮(いざわのみや)」であり、伊雑宮の社伝には稲穂をくわえた真鶴が登場してきます。

この伊雑宮も裏神紋が六芒星であり、男神アマテル(アマテラス)と関係が深く、またセオリツヒメが祀られている神社という話もあります。

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また一方の「亀」を象徴するのが、やはり籠目や六芒星でもある「籠神社」であり、籠神社の社伝には、海亀に乗った「倭宿弥命(やまとのすくねのみこと)」という祖神も登場してきます。

「鶴=伊雑宮」「亀=籠神社」「夜明けの晩=旧時代の終わり」「滑る=統べる」と新しい時代が始まる。

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旧時代が終わるという2015年。その後半である夏至の日に偶然にも訪れた伊雑宮。

イザワの宮はイサヤ(イザヤ)の宮なのか、イエス・キリスト(イサヤ)とも非常に縁が深い神社のようです。

ここには、キリストが磔になった十字架の一部が保管されているという噂もありますが、イエスはまた、ニギハヤヒと同魂の転生者とも言われており、そういえば、イエスといえば「ベツレヘムの星=八芒星」なので、籠神社の神宝の鏡に八芒星が入っていたのも何か関係しているのかもしれません。

いずれにしても今回の関西ツアー、偶然にも夏至の日に伊雑宮から始まり、その後に籠神社も訪れるルートとなったのですが、これも直前になんとなく「伊雑宮も行きましょうか?」と決まった直感ルートであり、まさか現地を訪れるまでは、かごめの歌と関係しているとは一切知りませんでした。

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両方とも初めて行った神社であり、籠神社の上空にはクロスのエネルギーも出ていたので、これで鶴と亀が統べって封印が解かれて新時代が始まるなら万々歳ですが、この鶴亀の話は有名で多くの人々が意識して訪れている場所でもあるようなので、もちろん今回に限ってそんな出来事が起こるわけもなく、そもそも、このかごめの歌ももっと深い意味の鶴と亀があり、幾通りにも解釈が分かれている歌でもあります。

とはいえ、日本各地から世界へ行っても、どこまでもつきまとってくるのがイエス・キリストとニギハヤヒであり、ここ数年で嫌というほど、彼らゆかりの地へと導かれているので、目に見えない世界の何かしらの仕組みの中で動かされていることは間違いないと思います。

今回も籠神社に訪れた際、境内の中にはほとんど誰もいなく、拝殿の前で宮司さんが1人で立っておられ、自分らが参拝を済ますと、宮司さんからお声をかけてくださり、そこから30分以上も海部家のことや国譲りのこと、そしてニギハヤヒのことも詳しく教えてくださったのでした。

ところで「後ろの正面だあれ」の解釈についても、あれこれ議論がなされていますが、鶴亀が伊雑宮と籠神社で考えている説では、どうやら真名井神社の奥に“スサノオ”を祀っている磐座があり、それが後ろの正面の位置であるといわれてます。

とにかく封印された神やスサノオの時代が近い将来にやってくるのでしょうが、今さら過去の国譲りの真実を暴き、血塗られた大和朝廷や天照大神の歴史の審判をするつもりはなく、ニニギの末裔だろうがニギハヤヒの末裔だろうが、伊勢系の人々も出雲系の人々も、今は過去にはこだわらずに次の新しい日本を共に創造する方に力を注いで欲しいと思っています。

結局、どちらが“正統派のヤマト”と言い合っても解決策はなく、ただ対立し合うのでは、今のキリスト教とイスラム教の宗教戦争の対立と根源の部分が一緒です。

キリスト教もイスラム教もアブラハムという1人の人類の祖から生まれた腹違いの子供の末裔同士であり、このニニギとニギハヤヒの関係と同じで、ようは親族同士の喧嘩のようなものです。

もしヤマトを巡る争いも似たような場合であれば、世界の雛形である日本で和合がはじまると、世界の宗教もまた自然と和合の道へと進むことでしょう。

どういった仕組みが動いた関西ツアーだったのかわかりませんが、そんなことを祈り歩いた不思議なお導きの旅だったと思います。