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※中学校3年生

《“やつは”メールマガジン(NO.194)》2017-03-31
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泰平さんの小学生時代
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本日で3月も終わり、明日から4月です。

都会でもすっかり春の気配が漂う中、ここ八ヶ岳は3月最終日になんと雪。

ただいま雪が降って積もり始めています。

よりによって明日からは、農園講座の塾がスタートするという時にまさかの雪ですが、
この時期の雪はそんなに降り積もるものでもないので、きっと夜半までには止むことでしょう。

さて、3月は卒業の季節、4月は入学の季節でもあります。

我が息子も卒園式を無事に済ませ、春から小学生。

最初の子供ということもあってか、なんだか親も小学校に入学する気分で少しドキドキします。

でも、我が人生を振り返ってみると、一番楽しかったのは小学生時代だったなとよく思い返します。

とにかく勉強より何よりも、遊ぶのが大好きな子供であり、学校でも家に帰っても、ただ遊ぶことだけしか頭にない小学校時代であったと思います。

そうそう、きっと子供がスマホをいじったり、ゲームにはまって心配になっている親御さんも多くいると思いますが、かくいう自分は子供時代はかなりのゲーマーでした。

自分の小学校時代にはファミコンとゲームボーイが全盛期であり、特に途中からはスーパーファミコンも出て子供がゲームに取り憑かれていた時代です。

「ゲームばかりやると目が悪くなる」
「頭が悪くなる」
「現実とバーチャルの世界の違いがわからなくなる」

そんなことも散々言われてましたが、自分の家では長時間できなければ、規制が緩い家庭に入り浸って散々ゲームをやりまくり、ゲームボーイに至っては、寝床に持ち込んで夜な夜なやりこむほどハマってました。

自分がゲーマーだったからといって、子供がゲームをやることを強く推奨するわけではありませんが、ただ巷で大騒ぎするほど、ゲームには弊害だけが付きまとうものではなく、メリットも多くあると思っています。

あまりにものめり込みすぎてバランスを崩しては元も子もないですが、うまく遊びの1つとしてコントロールできるようになれば、これほど脳のトレーニングになるもの、人生にとって役立つものはないと思っています。

というのも、自分にとって、サラリーマン時代の仕事の楽しみ方も、今のように起業して会社をいくつか作って運営したり、様々な事業を展開するのは、リアルの世界におけるゲームであって、そのベースは子供時代に養ったゲーム感覚から生まれています。

ゲームというより、遊び全般においては寝食も忘れるほど夢中になるタイプであり、今も仕事やプライベートの境もなく、生活や人生そのものを楽しんでいるのは、すべてを「遊び」と同じスタンスで捉えているからです。

ブログを書くのだって、仕事だったら3日ももたないですし、もともと文章を書くのも好きでもなく、得意でもありません。

たまたま今は遊びのような趣味みたいなものとなって楽しんでいますが、どちらかといえばすぐにあきらかすタイプでもあり、いつ突然に書くのをやめるのかもわかりません。

事業や会社も同じであり、作るまではプラモデルを作る子供のようにワクワクしてますが、完成してしまうとすぐに次のことに目が行ってしまうので、そうならないように、今は会社経営なども遊びの要素を多々いれて、日々飽きないように自分で工夫しています。

ドームハウスなんかも、別に誰に自慢したいわけでもなく、またこれで事業を始めたいとかもなく、ベースとなるのは「ただ、面白そうだからとにかく作ってみたい」と思っただけであり、それが結果的に事業となったり、多くの人に注目されたりと、遊びや趣味の延長線上に今の人生でやっていることの多くがあります。

さてさて、そんな泰平さんの小学生時代は一体どんなものだったのでしょうか。

まず、自分は言語で説明されるのが恐ろしく苦手であり、特に大人の男性、教師の言うことなどいくら説明されてもそのまま理解できず、一度自分なりにイメージに変えて、さらに自分の言葉で変換しないと、授業の内容がさっぱりわかりませんでした。

なので、小学校もそうですが、中学校、高校、大学も含めて、まともに先生の話をじっと座って聞いていることはほとんどありませんでした。

では、小学生の時は授業中に何をやっていたかといえば、ひたすら教科書やノートにいたづら書きをしていることが多く、しまいには机の上もいたづら書きだらけで、迷路を書いたり、漫画を書いたり、とにかく授業とは関係ない、自分の世界を自由に楽しんでいました。

小学生の高学年にもなれば、机の上に鉛筆で書いた独自のゲームシステムを構築しており、休み時間にもなれば、みんなが机の周りに集まって、鉛筆で作ったサイコロとか使って、独自のゲームで遊んでいたものです。

また家に帰っても1人遊びも永遠とするタイプであり、特に絵を書くことや漫画を書くことが低学年の頃から好きでした。

3人男兄弟の末っ子ということもあり、家の中に山ほど漫画があって、小さな頃からほとんどの少年漫画は読み尽くしましたが、やがては読むだけでは収まらず、自分で漫画を描き始めたのです。

最初はジャンプなどの漫画を見よう見まねで真似して書き、その後は自分の妄想のストーリーが頭でどんどん出てくるので、それを自分の絵で漫画にして物語にし、それがいくつものタイプが出てくるので、途中から自分でオリジナルのジャンプのような冊子を作るほどでした。

ただ、インドアの遊びだけでなく、アウトドアも好きでした。

雨が降れば、1人で道路の脇にある排水溝に葉っぱをいくつも流してレースを始めたり、山に行けば勝手に基地を作ったり、木に登っては危険な遊びをして、自転車をこぐようになれば、遥か遠くの街まで旅にも出ていました。

どんな遊びをしていたかを振り返ると、いくらでも書けるほど本当に遊びしかしておらず、一歩学校の勉強の方はどうだったかと思い返すと、まったく先生から教えてもらった記憶が残っていません。

これで成績が悪かったら親からも散々言われていたと思いますが、実は学校の成績は割と良いほうで、中学生にもなると、内申は9教科で常に40以上もあり、推薦である程度はどこでも行ける状況でした。

なぜ、授業がわからずとも成績がそれなりに良かったかといえば、小・中学生ほどの学習内容であれば、自分で独学で勉強すれば教えてもらわずともなんとでもなったからです。

幸いにも記憶力だけはあったので、記憶教育の日本では相性もよく、テストの点だけは良かったのでした。

そんなこんなで、子供の頃から親や先生の言うことをすんなり聞くタイプでもなく、学校のルール、一般社会の常識などハナから無視しているような人間だったので、それがそのまま大人になって、普通に社会に出て勤められるわけもなく、今の状況になっています。

そもそも、自分の未来は絶対に社会に適合できないと思っていたので、20歳頃には将来は独立することしか考えておらず、親にも「俺は普通のサラリーマンにはならず、自分が好きなように自由に生きる」と宣言していました。

血を引き継いでか、我が家の6歳の息子もかなりのゲーマー。

もちろん、時間的な制限など管理もしてますが、それよりも何よりも、6歳とは思えないほど高度なゲームを完全にマスターしており、6歳の頃の自分よりもはるかに上級者であります。

ゲームに対してアレルギー反応を示す人にとっては「せっかく八ヶ岳にいるのに自然に触れさせないと・・・」と思うかもしれませんが、ここは一歩庭に出たら大自然であり、否が応でも自然と触れ合う機会はあります。

いずれにしても遊びはバランスが重要で、決してゲームそのものはすべてが悪影響とは限りません。

使い方次第では、問題解決能力、発想力がついたり、物事をやり抜く自信、持続力や集中力もついたりもします。

とにかく、ゲームに限らず、子供には勉強だけでなく「遊び」を自分なりにたくさん経験してもらいたいものです。

そして、大人となった我々も、今は再び童心に戻ることが大切であり、子供の頃にワクワクしていたことがライフワークとなる場合もあります。

是非とも4月の季節の変わり目のタイミング、心機一転、童心の頃の自分に戻り、大人になったからといって制限せずに、遊びにの感覚で新たなことにもチャレンジしてみてくださいね。



《“やつは”メールマガジン(NO.195)》2017-04-03
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自由を追い求めた青年時代
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4月は入学シーズンということで、前回の小学校シリーズから続いて第二弾、
自分自身の中学生時代について少しお伝えできればと思います。

ところで、まず自分は現在は八ヶ岳南麓、山梨県の北杜市に住んでいますが、
もともと八ヶ岳をはじめ、山梨県は縁もゆかりもない場所です。

というのも本籍は秋田県秋田市で、今も先祖のお墓は秋田にあります。

これは父親の家系であって、母親は石川県羽咋市、それこそUFOのメッカである神子原(みこはら)の限界集落出身です。

その2人の親から生まれた三人男兄弟の末っ子であり、8歳上と3歳上の兄が2人いますが、父親が転勤族であったので2年に1度のペースで引越しをしており、一番上の兄など悲惨で2年ごとに転校で小学校を3つも通っています。

単身赴任となったのは、埼玉県入間市にやってきた時であり、当時の自分は6歳になる年長さんの時でした。

そして、入間市の小学校に通い、入間市の中学校を卒業しています。

今でこそ、少しだけ街並みも発展してきましたが、当時の入間市はお茶畑しかないのどかな田舎町であり、
一方で中学校は大荒れで、いわゆる不良が数多くいた中学校でありました。

小さな頃から運動もできて、どこかリーダー的な立場にいた自分は、すでに小学生の頃から中学生に目をつけられ、
小学校6年の頃には「中学に入ったら覚悟しておけ」と脅されていて、中学校の入学がとても嫌だったのを覚えています。

案の定、入学してから早々に呼び出されて殴られたりと、かなり厳しい洗礼の始まりでしたが、
いかんせん子供の頃からタフな心身もあって、それくらいのことではへこたれず、気づけば不良グループの先輩達の仲間に入れられている状況でした。

今でこそ、街を歩いているとブログ読者の方に「滝沢さんですか?」と聞かれてサインを求められる嬉しいこともしばしありますが、当時は街を歩いていると「お前が滝沢だな?」と呼び止められ、いきなり喧嘩を売られる悲惨なことも多々ありました。

ただ、幸いにも学校や親に対する責任はなかったものの、サッカー部に入ってサッカーだけは真面目にやっていたので、問題を起こして周りに迷惑をかけるのは避けたく、基本的には殴り合いの喧嘩はしませんでした。

当時、驚異的なトレーニングをしていて筋力と体力に有り余っており、下手に殴ってしまうと相手をどこまで傷つけてしまうかの心配もありました。

なので、話し合える相手なら話して喧嘩せず、なるべく仲良くなってその場をしのいだように思えます。

また、代々荒れている中学校であったので、同級生の中でも不良の道を歩みかけた仲間もいましたが、幸いにもみんな自分にとっては幼なじみのような存在であり、自分には良い意味で逆らわずに話を聞くので、彼らを間違った方向へはグレさせないように自分たちの学年だけは、弱いものイジメもない平和的な時代を作りあげました。

とはいえ、法律に触れないギリギリアウトのことは何でもしており、自分自身もまた中二で髪を染め始め、中三で部活もやめたら酒やタバコにも手を出し、バイクに乗って夜遊びに出かけたりと散々してました。

その頃の悪友のほとんどは、中学を卒業した後は事件などを起こしてしまい、多くが少年院へと行くことになりました。また先輩達の多くも、ドラッグへと走ってしまい、新聞・テレビ沙汰の殺人事件にまで発展して大騒ぎになったこともあります。

自分自身はといえば、喧嘩やドラッグは興味がなく、ただ自分らしく自由に生きたい衝動だけがあり、
変にグレても未来もないし、真面目に勉強して社会に出てもつまらない人生だし、一体どう生きていこうかと迷っていた時期だったと思います。

幸いにも前回お伝えしたとおり、記憶力はよく、中学生くらいの勉強は独学ですべて理解できたので、
授業をまったく聞かずとも、テストでは100点をとったりと、成績だけは常に学年トップクラスに良かったものです。

「こんなもの学んでも意味ないな」

そう思いながらも、田舎を飛び出し都内の自由な学校への憧れもあって、仕方なく成績は良くしておいて、推薦で中央大学の附属高校へと進みました。

理由としては、都内の私立学校の中でも制服もなく髪型も自由であり、何よりもバイクを乗るのもOKだったから。

あと兄弟を見ながら受験戦争のバカらしさを遠目で見ており、余計な勉強は中学までで終わらせ、あとは高校と大学と附属のエスカレーターで進んで、その期間に遊べるだけ遊ぼうと思ったからです。

そのため、自分は中学校以来、まったくまともに勉強したことがありません。

推薦で高校も入って、附属で大学もエスカレーターなので、いわゆる一般受験は一度もしたことがないのです。

そして、高校に入ったらもはや勉強はそっちのけとなり、頑張ったサッカーも辞めて、バイトやバンド活動、他にも様々な遊びに明け暮れ、そのまま大学へと進んでいます。

大学に入ればもっと勉強しないどころか、ついには学校はほとんどいかなくなり、奇跡的に卒業できた1人としても知られています。

そんな人間が2005年4月、今から12年前に社会人となって働き始めたのだから、今でも驚きです。

普段壇上にも立たせてもらい偉そうなことを言ってますが、知識レベルは小学生と変わらないか、小学生の方が優秀であり、今でも中身は幼い頃の感覚からまったく変わっていません。

「泰平さんって、30代とは思えないほど落ち着いているよね」

そう言われることも多々ありますが、むしろ小さな頃からこんな感じであり、容姿だけ子供で中身はおっさんかおじいさんだったのかもしれません。

こんな人間でも、今は親となり人並みには世の中に役立って生きようとしているので、子供が多少グレていても、他の子供と違っていても気にせず、子育て中の親御さんは、是非とも個性を伸ばす子育てをしていって頂けたらと思います。

社会人編はまた、どこかで時間があればお伝えしますね。



《“やつは”メールマガジン(NO.196)》2017-04-07
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脳科学の研究から超心理学の世界へ
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前々回からお伝えしている滝沢泰平の生い立ちシリーズ。

息子の小学校入学をきっかけに始まった自身の過去の振り返りですが、小学校、中学校を中心に高校や大学までもさらっと前回まではお伝えしました。

ということで、今回からは社会人編。

学生を卒業して社会に初めて出たのは、今から12年前の2005年4月でした。

新卒入社で入った会社は、某大手の旅行代理店。

実は学生時代に目指していた会社は商社であり、就活で受けたのは90%以上が商社、あとはマスコミ関係と旅行会社数社ほどでした。

商社を目指したのは、高校生時代に坂本龍馬に刺激を受け、自分もまた世界を股にかける仕事をしたいと思い、商社に入ったら世界各地を飛び回れるような安易なイメージがあったからです。

旅行会社も同じで、マスコミは興味本位でテレビ局なども受けました。

結果的に中堅どころの商社数社から内定をもらったものの、希望する企業の選考は落ちてしまい、せっかくなら大きな組織を体験してみようと、他にも内定をもらった大手旅行代理店に入社したのでした。

ただ、将来は独立、フリーランスで自由に生きて行くことは学生時代からある程度決めていたことなので、就職活動も人生がかかっている深刻なものとは捉えず、かなりお気楽に考えていた方だとは思います。

一応、就職活動中だけ真面目を装うために、ずっと金髪だった髪も黒髪に染めましたが、内定直後にまた元の金髪に戻し、内定者研修などもそのままの髪型で参加していたので、すでに「あいつはなめてるな」と問題児扱いされていました。

人事を完全に敵に回したのは、入社後の新入社員研修。

入社して1ヶ月以上は、会社が用意した研修所に内定者は缶詰状態となり、これから旅行会社の社員となるための教育、勉強、ビジネスマナーの基本などを学ぶのですが、新入社員には内定後から入社までの間に準備する宿題が出されており、それは自分が関心のあることを研究してこの新入社員研修でプレゼンするものでした。

その年の内定者は60名前後。そのうちのほとんどの同期は、旅行会社だけあって旅行や地理に関する研究をまとめて上手にプレゼンしてましたが、自分のプレゼンテーマは「右脳教育について」という、旅行とはまったく関係のないテーマでした。

関係のないテーマだけでなく、12年前の時代では、まだまだ右脳教育や右脳の持っている力は世間一般には認識されていなかったので、研修を担当していた人事をはじめ、同期の仲間も「こいつは何を考えているんだ?」と明らかに変人扱いの目で見られていました。

話の内容としては、左脳と右脳の持っている機能の違いだけでなく、左脳の100万倍以上のスーパーコンピューターとしての力を持っている右脳を現代日本はまったく生かしきれていないこと、この会社の研修内容をはじめ、現在の日本の学校教育から社会のあり方を含めて左脳型社会であり、これからの時代は右脳型ビジネスマンが必要であると力説しました。

いずれにしても、生意気な人間であったので、こんな研修をやるより脳トレーニングをした方がずっと意味があることを伝えていたら、当然ながら会社側からは白い目で見られ、内定者時代に続き、やはり入社をしてもこいつは問題児であったという立ち位置を完全に確立しました。

ところで、なぜ自分は右脳のことなどに関心があったのといえば、それは自分自身が“左利き”であることが影響をしています。

左利きの人間として小さな頃から当たり前に生活してきましたが、そもそもなぜ人間に左利きや右利きがあるのか知りたく、それを突き詰めていくと、人間の脳と利き手の関係が何かしら絡んでいることを知ったからです。

そして、右脳の持っている未知の力を知り、そこから脳をトレーニングしていくと、人間が本来持っている潜在能力、超能力を使いこなせることができるようになることも知りました。

やがて、松果体と宇宙との繋がり、人間の持つオーラやチャクラのことも知り、社会人1年目は、仕事を一生懸命やるよりも独自に右脳トレーニングを重ねて、1人でオーラを視る練習や速読、速聴などを試していました。

そんな仕事よりも宇宙や目に見えない世界に夢中だった社会人1年目、やがて脳から人間の持つ心や意識へと関心がいくようになり、その過程で心理学の世界へも足を踏み入れることになりました。

専門的な学術書なども何冊も読みあさりながらも、どうも一般的な心理学の中では真理の探究には物足りず、そして心理学のコーナーからついに「超心理学」や「精神世界」といったカテゴリーへと突き進むようになりました。

この分野に来てからようやく自分の考えていることと納得するような情報と出会い、単なる心の問題だけでなく、オーラをはじめ、霊魂とも言える人間の本質の部分まで調整しないと、人を癒す根本的なセラピーもできないことを知りました。

そこで、もともと興味のあった心理学をより本格的に学び、またこれに独学で精神世界も学んで心理学とも融合させ、魂の深い部分や霊体も癒されるようなセラピストを目指そうと、臨床心理士の資格を取るために仕事を辞めて大学院を目指すことにしました。

新卒入社から1年6ヶ月。退職の段取りも決まり、2ヶ月後にはフリーターとなってしばらくは自由きまま生きようと思っていた矢先に、まさかの展開が。

当時、採用は東京でありながらも配属は大阪であり、同じ同期の仲間で付き合っていた女性も大阪にいました。

退職後は、自分だけが東京へ行く予定となっており、彼女は大阪に残るはずであったのが、ある日に突然「私も仕事を辞めて東京へ行く」と。

「えぇ!?一緒に来るの??」

嬉しいようで、どうやって食べさせていこうと不安にもなり、そこで「仕方ない、東京で少し真面目に働くか」と思い、すでに退職まで1ヶ月ちょっとほどしか時間がない中に大慌てで転職活動開始。

運良く採用活動をしていた雰囲気の良いベンチャー企業への入社が決まり、そして今度は東京で一緒に生活する家探し。

それもあっという間に決めて、今度は相手の両親に挨拶に結婚を前提とした同棲のご挨拶に行き、バタバタバタと24歳のクリスマス、大阪から東京へ引っ越して新たな新生活が始まったのでした。(続く)


《“やつは”メールマガジン(NO.197)》2017-04-10
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第二のサラリーマン時代(東京編)
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2007年1月より、大阪から移住して東京での社会人第二の人生が始まりました。

新卒で入社した旅行代理店は、従業員数5000人以上もいる割と大きな会社でしたが、
第二新卒で転職した東京の会社は、従業員数30人ほどの小さなベンチャー企業。

設立から4年目の新しい会社でしたが、急成長中でとても勢いがありました。

事業内容は、よくある人材サービス業。

自社で登録のある人材を求人募集している企業に紹介したり、企業から求人広告をもらって自社の求人サイトに掲載するといったサービスを展開していました。

ただ、一般的な人材会社と少し異なるのが、登録している人材はすべて障がい者。

身体障がい、知的障がい、精神障がいと、障がい者は障がい者手帳によって大きく3つのカテゴリーに分類されていますが、この会社で主にサポートをしていたのは、重度や軽度に問わず、この中でも身体障がい者でした。

身近に障がい者がいるわけでもなく、これまでもそういった福祉関係のボランティアなどにも関わったことがなかった人間が、突如畑違いの人材会社、それも障がい者を持っている人の就労サポート。

なぜ、自分がそういった福祉に近い分野に関心を持ったかといえば、基本的には、せっかく働くなら自分が納得いなかいモノやサービスを作る・売る仕事よりは、少しでも世の中にためになる仕事をしたいと思ったからです。

後から考えたら安易でしたが、障がいを持っている人の就労サポートといえば、それはイメージだけでは自分の中では社会貢献と繋がるものがありました。

また、障がい者に限らず、誰もが幸せに豊かに働ける社会を目指すのも自分の中の目標にあり、それは新卒でわずかに社会に出ただけで、この社会の生きづらさ、働きにくさはそれなりに体感したので、仕事を通して世の中に何か変化を与える活動をしたかったからです。

そして、もう1つ大きな理由となったのは、障がい者の中でも精神障がい者へのサポートにも強く関心があったからです。

前回のメルマガでもお伝えしたと思いますが、自分は脳科学、心理学を独自に研究していた人間であり、その中で当時から問題になっていた精神障がいや精神疾患、いわゆるうつ病や統合失調症などのメンタルに関わる問題にもライフワークとして関わりたいと思っていました。

当時はまだ、精神障がいを持った人の社会の受け入れは進んでおらず、一方でうつ病患者をはじめ、精神的なトラブルを抱える人は年々急増している状況でした。

現在は、身体障がい者で360万人、知的障がい者で54万人、精神障がい者で320万人となっているようですが、潜在的な精神疾患を抱えている人は、1000万人から2000万人とも言われています。

この精神疾患の急増の背景には、現代社会のストレスもありますが、衣食住をはじめ、薬を中心としたケミカル生活、電磁波などの環境問題も関与しています。

ただ、そういった三次元な原因だけでなく、もっと深くは霊的な部分、魂にまで及ぶ原因が影響していると自分の中では確信を持っていたので、自分の研究していた超心理学の分野を仕事にも生かせるのではないかと考えました。

この会社に勤めたのは、2007年1月から2011年3月まで。

ここでの丸4年間の仕事はとても充実していました。

会社の雰囲気もとてもよく、自分自身も第二新卒というほぼ新卒入社に近い形でしたが、ここで営業活動を中心にビジネススキルを相当鍛え上げられ、メキメキと成長して成果を出し、入社から2年目には全社員の中のMVP賞をもらうほど、成績は抜群に良い結果を残しました。

残業は月10時間未満のほぼゼロで、営業成績は圧倒的な売り上げでトップをキープ。

実は営業にしろ仕事で成果を出すにも“コツ”があり、本来はそういった営業ノウハウなどの本も書きたいのですが、なぜかビジネスとはまったく違うオカルト本ばかり書いている気がします・・・。

余談にはなりますが、障がい者雇用の就労サポートは、単なる人材会社の枠を超えて、かなりの知識と経験、問題解決能力や企画力が必要であり、営業の中でも本格的なコンサルティング営業が必要でありました。

つまり、ただ自社のサービスや商品を売るというスタンスではなく、相手が抱えている問題や課題を見つけ、それに対して解決策を提案し、信頼と得てお仕事の依頼を受けるといったものです。

ちなみに企業は、法律において障がい者をある一定数雇用する義務があり、従業員数や業種によって、その割合は変わってきます。

大きな会社ともなれば、何百人もの障がい者を雇用していなくてはならず、それはハローワークだけでは、なかなか採用をまかなうことができずに、こういった民間の障がい者雇用専門業者が必要となるのです。

また、今まで障がい者雇用をやってきたことのない企業もコンプライアンスの観点から障がい者雇用を始め出した時期でもあり、会社としては入社からずっと追い風で次々に大きな企業との取り引きも始まりました。

自分は新規開拓の特攻隊長みたいなものであり、設立数年の小さな会社でありながらも、遠慮なく超大手企業に連絡をしまくり、そこで人事部に入り込んでヒアリング、企画書を作ってプレゼンして、4年間の在籍期間だけでも、相当数の大手から中小企業との取り引きを成功させました。

その中でも自分が得意としたのは、外資系企業。

どちらかといえば苦手なのが、頭の固い古い日本の企業であり、そういうところは年配の男性人事部長とかで話が進むのが遅いのですが、外資系は女性担当者や責任者が多く、またベンチャー企業でも偏見を持たずにしっかり話を聞いてくれるので、とても相性が良かったと思います。

そんな中、2008年に新規で開拓した有名外資系企業と大きな取り引きになり、そこは自分にとっても大きな人生の転機になりました。

それはリーマン・ブラザース証券。

ご存知のとおり、2008年9月に全米だけでなく、全世界を震撼させた「リーマンショック」を引き起こした張本人であり、このリーマン・ブラザースは、自分の大切なお取引先でありました。

リーマンショックが起こる数ヶ月前より、自分はリーマン・ブラザース内部に入って社内のコンサルティングをやっており、各部門の責任者を集めてプレゼンなどもやってすっかり仲良くなっていました。

そして、具体的な契約も終わり、様々なサービスを取り入れて頂いたのですが、その支払いがまだ残っていた2008年9月、突如テレビに流れてきた「リーマン・ブラザーズ倒産」のニュース。

出社してすぐに先方へ連絡するも、当然ながら担当者達も何もわからないパニック状況であり、あれよあれよと不良債権となり、結局会社にとっても痛手となってしまいました(最終的には時間をかけて未払いを回収しましたが)。

ただ、この「リーマンショック」による不景気は、人材会社にとっては苦難の始まりであり、その中でも一般採用より優先度が低い障がい者採用の市場は急速に低迷し、それから数年間は会社の業績は非常に大変な状況となりました。

そんな中でも自分の営業成績は極端に落ち込むことなく、会社にはそれなりに貢献し続けましたが、それ以前に自分の中ではリーマンショックが大きなきっかけとなり、この世界経済、金融社会の水面下で一体何が起こっているのかが気になってばかりいました。

その関心の答えを見出したのは以外にも早く、リーマンショックから1ヶ月後のあるイベントの参加でした。(続く)


《“やつは”メールマガジン(NO.198)》2017-04-14
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人生を変えた2008年10月
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2008年9月、サラリーマン時代の全盛期に起こったリーマン・ショック。

ちょうどその1ヶ月後の10月下旬に自分自身は結婚式を控えていました。

そんな結婚式前の大事な週末のある日、忘れもしない2008年10月12日(日)。

まだまだ結婚式に準備することはたくさんあったにもかかわらず、無理を言って1日だけ出かけさせてもらったのが、この日に品川のホテルで開催された「船井幸雄オープンワールド」というイベントでした。

サラリーマン時代、とても影響を受けた人物の1人に作家の本田健さん(「ユダヤ人大富豪の教え」など著書多数)がいて、その本田健さんが出演されるイベントということで、何もわからないままオープンワールドに初めて参加しました。

この日の講演スケジュールは以下のような講師陣による講演でした。


10:00-11:20 アメリカ在住作家 本田 健
12:20-13:50 常葉学園大学教授 副島 隆彦
14:30-15:50 日本弥栄の会 代表 中矢 伸一
16:30-18:00 株式会社船井本社 代表取締役会長 船井 幸雄


3000人以上も入った会場は、なんとも言えない独特な雰囲気に満ちており、何かすごいことがこれからが始まる大きな期待と不安の中に26歳の自分はドキドキしながら身を置いていました。

憧れだった本田健さんの講演は、とても面白く勉強になることばかりで、その後のサイン会にも自分は並び、結婚式前であったので、無理を言って健さんに「妻が大ファンなので、妻宛にメッセージを書いて頂けますか?」とお願いをしました。

本田健さんは、快く「いいですよ」と答えて「奥さんの名前は?」とメッセージ付きのサインを書いてくれました。

この時はまさか将来自宅に遊びに来て頂くような関係になるとは思ってもいませんでしたが、憧れの人から予想外のギフトももらって有頂天となり、もう結婚式の準備もあるから帰っても良いかなと思っていたほどでした。

ところが、続いて講演された副島隆彦さんの講演は、また凄い情報で、まさに目からウロコでありました。

副島さんは、ちょうどリーマン・ショックが起こる直前の9月頭に「恐慌前夜」という本を出版しており、そこにリーマンは消えてなくなることを予測していて、見事に的中させていた人であったのです。

まさにリーマン・ショックに大きな影響を受けていた当事者としての自分は、副島さんの話に聞き入ってしまい、そこで経済の裏にある闇の権力者、それこそロックフェラーやロスチャイルド家のこともこの時に初めて知りました。

「この現実世界の裏は、こういった仕組みになっていたのか・・・」

ビジネスの世界でバリバリに生きていた自分にとっては、経済の仕組み、現実の裏社会の話などは、とてもタイムリーで入り込みやすく、この講演で副島さんのすっかりファンにもなりました。

ところが、その次に続く、中矢伸一さんの講演は、さらに自分の意識を大きく変えていくものとなりました。

終戦間近、自動書記によって降ろされた未来預言書の「日月神示」の研究家と知られる中矢さん。

この日に初めて「ヒツキシンジ??」を知った自分は、何か電流に打たれたような衝撃が走り、一気にスピリチュアルな意識、価値観が目覚めてしまいました。

「このまま人類の覚醒がなければ、地球の浄化、大掃除が近い将来に起こってしまう・・・」

現実世界の裏世界から、今度は目に見えない世界へと自身の関心は移り、この日の自分の頭の中はプスプスと煙が出そうなほど混乱している状況でした。

そして、迎えた最後の登壇者である船井幸雄会長。

会場には続々とお客さんも集まってきて、皆が期待と興奮に満ちて船井会長の登場を待っている雰囲気が伝わってきました。

それまで、何冊か著書をサラッと読んだことはありましたが、生で見るのは初めてであり、会場のただならぬ雰囲気を察して、自分もどんな方なのかとても楽しみになりました。

やがて時間となり、3000人以上の聴衆の前に姿を現した船井会長の姿は、眩しいほど黄金のオーラに包まれており、自分自身にとっては初めて後光がさすような現象を目の当たりにしました。

船井会長の言葉は、一言ひとことが、魂の深い部分に突き刺さるように入ってきて、自分の意識とは違う別の意識が懐かしくその言葉、その声を聴いており、26歳の青年は、半世紀違いの魂の大先輩にすっかり夢中になっていました。

そんなこんなで、脳が完全にショートしてしまった2008年10月の船井オープンワールド。

帰り道、電車に乗って、いつもと変わらない現実世界を見ても、意識の変容が起こった自分には今までの世界が別の世界に見え、そこから自分の中の何かが目覚めはじめ、やがてこの世界を変えること、未来を変えていくことに何ができるかを考えました。

そこで様々な著書や講演を聴いて勉強をして、オープンワールドに初めて参加した時から1年を過ぎた頃からブログを書き始めるようになりました。

「まだまだ仲間は世界に多くいるはず・・・」

そんな人たちに「自分はここにいるよ」と見つけてもらうために、コツコツと誰も見ていなくても、記事を書き続けて、もう7年ほど経過しました。

最初は数人、少し増えて数十人が見てくれるようなブログとなり、サラリーマンを続けながら、日々自分が気づいたこと、知ったことを記事にして匿名での発信活動を続けました。

実は勤めていた会社の中でも情報発信を始めており、自分がマーケティング部門にいた頃、毎週市場レポートなどを社内メルマガで共有していたのですが、その中にコラムを交えており、そこでは世界経済の裏事情、目に見えない世界の話などを少しずつ書いて勝手に会社の人たちに発信してました。

最初は都市伝説程度に楽しんでいたいたようですが、やがて社内でも本格的に関心を示す人が増えてきて、会社の中でも直接情報を求めてくる人も増え、1人ひとりに、その方の意識や情報レベルに合わせて、この世界の真実を啓蒙していました。

今考えると、かなりリスキーな活動ですが、幸いにも理解して頂ける方が多い職場であり、少しずつですが、社内での意識変容も起こっていたと思います。

そういった地道な情報発信の活動とともに、自分自身は船井幸雄会長に憧れて、より学びを深めようと思い、2つの団体に入会して勉強する取り組みを始めました。

1つは、世の中の真実を探求する「にんげんクラブ」であり、もう1つは、現代科学を超えた技術を実践的に学ぶ「生体エネルギー」の勉強会でありました。

これらの活動が本格的に始まった2010年の春、ひょんなことがきっかけでスピリチュアルな人々が集う溜まり場「オーラカフェ」へと導かれ、そこから新たな展開が始まったのです。(続く)

さて、春になってから始まったメルマガの「生い立ちシリーズ」

第2話くらいでサラッと終わりにしようかと思っていましたが、意外にも「もっと続きが知りたい」というご要望が多くあり、いつの間にか第5話まで話が続いています。

また途中からメルマガ登録している方からも「バックナンバーが読みたい」というご要望もあったので、本当はメルマガのみで非公開の予定でしたが、第1話から第5話までをアップしておきますので、お時間のある時にでも読んでみてください。

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