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本日、8月17日は35回目の誕生日。

今日で35歳となりました。

「えっ?まだ30代だったっけ??ふけて・・・いや落ち着いていますね」

20代の頃からずっと実年齢よりも上に見られていたので慣れていますが、早く見た目も年相応になるように今からアンチエイジングで逆転する日を目指しています。

35歳という年齢は、自分の中で1つの節目に思っています。

それは今から7年前であったでしょうか、まだ東京にいた頃の28歳の時、長野にある生体エネルギー研究所という場所に毎月勉強で通っていました。

その研究所の代表である佐藤政二先生は、あの世の世界も因数分解して数式で表現できるほどのずば抜けた知識と知恵を持った天才科学者であり、当時は、その佐藤先生のもとで35歳以下の若者を集めての定期勉強会が開催されていました。

ある日、若者たちを引き連れた山登り研修の中で佐藤先生に35歳以下の若者を集めた理由を尋ねたことがあります。

すると、佐藤先生はこう答えました。

「人間というのは、35歳までの価値観で60歳までの生き方が決まる。35歳までの若者に知ってもらいたいことが自然の中にある」

佐藤先生が言うには、人間は「1サイクル9年」でステージが変わっていくそうです。

つまり、0~8歳、9歳~17歳、18歳~26歳、27歳~35歳、36歳~44歳…といったような期間で分けられており、その期間でも学ぶことがそれぞれあるようです。

そして、この9年サイクルとは別に35年の節目のサイクルがあるようで、35歳までに培ってきた価値観などによって、そこから先の60歳までの大まかな方向性が決まると言います。

ということで、35歳は27歳から始まった9年間の小サイクルの最終年度でもあり、またこれまでの人生35年目の中サイクルの最終年度でもある節目の年齢となります。

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振り返ってみると、もはや9年サイクルは、それぞれが過去生のような時代であり、そして今の時代もまた、40代、50代の自分が将来振り返ってみると過去生のように感じられるほど、きっと未来の自分はまた全然違う自分へと生まれ変わっていると思います。

それにしても、なんだかんだ波乱万丈だった35年間。このペースで波乱が続くと、一体この先はどうなっていってしまうのかハラハラ・ドキドキ・ワクワク(?)ですが、まずはこの世に生まれたことを両親に感謝しつつ、限りある地球生活を日々楽しむ限りです。

さて、ただいまメルマガで連載中の生い立ちシリーズ。

2017年04月14日《生い立ちシリーズ第1話から第5話》

以前にブログでも総集編として第1話から第5話を紹介しましたが、今回は続きの第6話から第9話まで。

ちょうど、2010年の生体エネルギーの勉強会のことなども書かれていますので、以下に転載しておきますね。

それでは35歳もどうぞよろしくお願いいたします。また、たくさんのお祝いメッセージ心から感謝です。

《“やつは”メールマガジン(NO.199)》2017-04-21
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生い立ちシリーズ第6話
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2010年春から通い始めた「生体エネルギー実践研究会」という講座。

これは長野県の東御市の山奥にある生体エネルギー研究所で毎月開催されており、金曜日と土曜日だったので月に1度会社を休んで首都圏から通ってました。

ここでは「想造量子宇宙論」という学問を学びます。

この理論の提唱者は、生体エネルギー研究所所長の佐藤政二さん。

船井幸雄会長が認めた天才の1人であり、目に見えない世界、あの世の世界を因数分解したと言われる佐藤先生は、農業の連作障害(同じ作物を同じ場所で栽培していると収量が落ちる)を解決する中で生体エネルギーを発見し、それを体系化してあらゆる産業へ生かしています。

目に見えない世界への情報にアクセスして現実に影響を与えることができる生体エネルギーでは、農業であれば「白い人参」を作ったり、他にも情報を変えて「トマトの形をしたナス」なども作ってました。

この物質世界の情報を扱える生体エネルギーは、様々な産業に生かされ、有名なところでは「神様の宿る家」という本がベストセラーとなり、住宅産業にも応用されて健康住宅がたくさん作られました。

ちなみにドームハウス建築にも生体エネルギーの住宅資材は使われており、基礎工事をはじめ、地下室のコンクリートなどに生体エネルギーの水を混ぜていて、コンクリートから体を癒すエネルギーが放射するように調整してあります。

鉄筋コンクリートの家やマンションもそうですが、基本的にコンクリートは体を冷やすし、生物にとってマイナス要素が多いので。

またEXILEという音楽グループのATSUSHIが熱心な生体エネルギーファンであることは有名であり、EXILEのコンサート会場でも、この生体エネルギーの技術は至るところに使われているようです。

さて、そんな生体エネルギーの勉強会に通い始めて何度目か、1人の参加者の方と仲良くなり、その方にある日に東京にあるカフェでのイベントに誘われました。

「オーラカフェの今度のイベント行くの?」

「オーラカフェ??なんですかそれは?」

どうやら東京の汐留に「オーラカフェ」という、なんとも都心に似合わない摩訶不思議なカフェがあり、そこではオーラ測定をするだけでなく、定期的にゲスト講師が来てスピリチュアルなセミナーイベントを開催しているようでした。

「別に自分はいいですよ・・・」

基本的に人見知りであり、この勉強会だって純粋に学問や技術を学びたくて、そこまで仲間作りなど期待していたわけではなかったので、そのオーラカフェのイベントも興味はなかったのですが、なんだか強引に誘われ、とりあえずオーラカフェへ後日伺うことになりました。

最初に伺ったイベントのゲストは誰だったのか、もう忘れてしまいましたが、そのオーラカフェは、当時の首都圏にいたスピリチュアル好きな人たちの溜まり場となって、とても賑わっており、行けば普段の生活の中では出会わない不思議な人たちがたくさんいて、いつの間にか自分も仕事帰りによく顔を出すようになりました。

すっかりオーラカフェの常連の1人となった2010年夏の終わり頃、当時に仲良くなったメンバーの1人に佐々木重人さんという方がいました。

「地球コアにまで響き渡るコトダマ 天皇祭祀を司っていた伯家神道―秘儀継承者七沢賢治がえがく新創世記」(徳間商店)

こんな本を書いていた作家の方です。

「天皇祭祀・・・」

このキーワードが何か自分の中に引っかかるものがあり、この本に出てくる伯家神道(はっけしんとう)、そして、この秘儀の継承者である七沢賢治先生という人にとても惹かれていました。

七沢先生は、船井幸雄会長の著書やHPの中で何度か登場してきており、古神道の秘儀の継承者で言霊研究の第一人者の天才であると紹介されていたのを覚えていました。

その七沢先生の弟子である佐々木重人さん。

「1度、七沢先生にお会いしてみたいなぁ」

そんなことを思っていたものの、自分は単なるサラリーマンで何の力も知識もなく、当時書いていたブログも趣味のレベルであり、読者数もほんの僅かで、とてもお会いして何かお話ができる立場でもありませんでした。

何より七沢先生の拠点は、山梨県の甲府市。都内にいて簡単に行けるような場所でもありません。

ところが、自分の中で不思議なシンクロがあり、実は甲府にはその年の春から毎月1度通っていたのでした。

というのも、当時は千葉市の海浜幕張に住んでいたのでしたが、里帰り出産の病院が山梨県甲府市であったのです。

それも調べてみると、七沢先生の事務所から目と鼻の先とも言える近距離に通院先があり、これも何かのご縁と思って、思い切って佐々木さんに「七沢先生をご紹介頂けますか?」とお願いしたのです。

「俺から連絡はしないけど、俺の名前を使ってアポイントを取るのはいいよ」

と言われたので、すぐに七沢先生の事務所へ連絡したのでした。

すると七沢先生が直接電話に出られ、特に自分が何者かもよくわからないのにも関わらず

「まぁ、どうぞ一度来なさい」

と訪問させて頂く許可を得たのでした。

その数日後、七沢先生の訪問日の直前に佐々木さんにお会いする機会があり、そこで

「おかげさまで七沢先生とお会いできることになりました」

そう報告すると

「え?いつ?よくアポイント取れたな?」

そんな回答が返ってきました。

「・・・どうしてですか??」

どうやら驚くべきことに、自分がアポイントを取るために連絡をした翌日、佐々木さんと七沢先生は方向性の違いで大ゲンカの上で完全に決別してしまい、以後その関係は修復していないほど深い溝が出来ていたのでした。

事実上、破門となってしまった佐々木さん。

その佐々木さんの仲間であり、紹介者として訪問する予定の自分・・・。

「(これってかなり気まずいんですけど・・・)」

今考えたら、自分との約束をキャンセルされてもおかしくはないほど激しい決別だったのですが、それにしても人と人の巡り合わせは本当に不思議なものであり、あと1日でも七沢先生に連絡するのが遅かったら、とてもアポイントなんて取れる状況ではありませんでした。

他にも生体エネルギーの勉強に通っていなかったら、そこで嫌々でもオーラカフェに行ってなかったら・・・、むしろ、その誘ってくれた方が強引に誘ってくれなかったら。

佐々木さんと出会ってなかったら、里帰り出産の病院が別の病院だったら・・・考えたらキリがないほど、人とのご縁というのは、すべて仕組まれて動かされており、人生において出会うべき人とは必ず出会えるようになっていると思っています。

そんな出会いであった最初の師である七沢賢治先生。

ビビりながら門戸を叩き、初めて七沢先生にお目にかかったのは、残暑が残る2010年9月のこと。

そこで古神道の審神者(サニワ)である七沢先生に降りた1つのメッセージ。

「統留(すばる)」

お腹の中のプレアデスから来た魂が、突如、七沢先生に送ったメッセージは生まれてくる自分自身の地球での名前でした。(続く)

《“やつは”メールマガジン(NO.200)》2017-04-21
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生い立ちシリーズ第7話
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2010年9月に訪れた甲府にある七沢研究所。

そこの代表である七沢賢治先生といえば、知る人ぞ知る言霊学の第一人者であり、天皇祭祀を司っていた白川神道(伯家神道)の秘儀継承者です。

奇跡的なご縁が繋がった初訪問の際、当時妊娠中でお腹の中にいた息子からテレパシーメッセージが入り、そこで自らの漢字の名前を伝えたのでした。

なので、我が家の息子の命名は、七沢賢治先生であります。

そんなご縁で繋がった七沢研究所。

出産予定の病院が研究所の目と鼻の先だったのもあり、それから毎月のように通わせて頂き、言霊のこと、天皇祭祀のこと、研究所の活動のことなど様々な教えを頂くようになりました。

ちょうど出産間近ということもあり、祭祀をする特別な部屋に入れて頂き、訪問する度に胎児に魔が入らないように祓いを受けていたものです。

家庭でも学校でも社会でも一切教えてくれませんでしたが、間違いなく人間には不思議な力が兼ね備わっており、またこの世界そのものも不思議現象に満ち溢れていると確信していた中、
当時の自分にとって天皇祭祀というは、もっとも気が惹かれるものであり、その秘儀というものが一体どんなものなのか知りたいという好奇心でいっぱいでありました。

人間には超能力があり、古代人はそれらを上手く使いこなしており、その中でも国を代表する天皇というのは、完全に見えない世界、宇宙と繋がっており、それで日本を守り、地球をも管理していたに違いない・・・。

では、天皇は一体どうやって神とも言われる大いなる意識と繋がっていたのか。

それを突き詰めていくと、古代ムー、古代ユダヤ、縄文の頃より引き継がれてきた秘儀が今もなお日本には残っており、それが天皇祭祀「十種神宝(とくさのかんだから)」と呼ばれて伝わっていることを知りました。

有難いことに、特に弟子の募集も門戸も開いていなかったのですが、ひょんなきっかけから研究所に通うようになると、少しずつ自分も秘儀伝承を学ばせて頂く機会に恵まれました。

最初は自分自身が依り代となって審神者(サニワ)の先生に診断して頂き、自身の過去生や様々な情報を降ろしてもらってましたが、途中からは祝詞や拍手、息の使い方など、十種神宝の初級を教えて頂くことになりました。

そんな矢先、子供の出産予定日が間近に迫った2010年11月下旬に所属していた会社の中で、突然の異例の展開がありました。

業績不振による経営革新として、従業員の3分の1を減らす希望退職者を募るというのです。

出産と同時に1年から2年の育児休暇を取るつもりで会社側とも話を進めて、すでに引き継ぎ作業に入っていた自分にとってはびっくりな展開であり、この突然の会社側からの提案についてちょっと悩みました。

「こんな大変な状況の中、育児休暇を取って休んでいる場合かな」
「このまま残っていても、あまり良い環境にも自分の成長にもならないかな」

正直、トップセールマンとしてやるだけのこともやり、自身の中でのステップアップもかなりさせてもらっていたので、会社に対しての大きな未練は残っていませんでした。

「このタイミングで辞めちゃおうかな」

条件は、2011年3月末まで籍は残すけど、勤務自体は2011年1月末までで良く、残り2ヶ月は出勤せずとも給料が支払われ、それが事実上の退職金となるとのこと。

とはいえ、1月中も有給消化ができるので、引き継ぎ作業が上手くいけば1月中もほとんど休めます。

さらに、会社都合による退職なので、2011年4月からすぐに失業手当も数ヶ月は支給されるということで、もろもろ考えると2011年が始まってから半年以上は仕事もせずにのんびり過ごせるスケジュールです。

「ちょうど子供が生まれるし、いいかな」

普通は「子供が生まれる=安定した生活」と考えるようであり、わざわざ仕事を辞めるというリスクを取るよりは、むしろ会社が希望退職者を募ろうともなんとかしがみつこうと考える人の方が多いようです。

でも、自分にとってのリスクは、自分自身が納得しない環境下に身を置いて日々を過ごし、それでストレスも溜まって時間だけが過ぎていくこと。

そのルールは徹底しているので、一度見切りをつけてしまうと一切興味を持たず、次の目的に向かって意識は先に走り出してしまうので、どんなに説得されても聞く耳持たず、家族にもあまりロクに相談せずに、募集開始後の第1号として自分は退職届を出してしまったのでした。

「何もちょうど子供が生まれるタイミングに仕事を辞めなくても・・・」

そんな声も多々ありましたが、ちょうど子供が生まれるタイミングだからこそ、・・・自分以外に守るべきものが増える時だからこそ、より自分自身が己の生き方に嘘をつかず、納得した道を歩まなければ、そのつけは必ず家族へと回っていきます。

それが2010年12月頭。

そして、2010年12月10日に待望の宇宙人君と対面したのでした。(続く)

《プレアデスからの使者》
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51645116.html


《“やつは”メールマガジン(NO.201)》2017-04-24
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生い立ちシリーズ第8話
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2010年12月10日、念願だった第一子が誕生しました。

予定日は12月12日だったので、2日違いではありましたが、産まれる前日の検診では、まだ頭が産道の入り口に収まっておらず、このままだとちょっと予定が遅れるかもというお話がありました。

「頭をちゃんと収めて、もういつでも自分のタイミングで出てきてね。待っているよ」

そうお腹の中に話しかけていると、その日の夜に突如陣痛が始まり、未明に病院へ移動して午後には産まれたのでした。

やっぱり赤ちゃんは、お腹の中にいてもコミュニケーションが取れるものだと感心したものです。

それにしても、初めて親になるという経験。

これは今でも自分の意識転換の1つのきっかけでしたが、もう言葉にならないほどそれは感動を超えたものであり、その日、その瞬間から世の中の見る目が変わってしまったのをよく覚えています。

親だから、当然我が子が可愛く見えるのもありますが、それが他の赤ちゃんや子供はもちろん、それどころか、大人も含めて、皆が赤ちゃんの時代もあり、
そして、誰もがたくさんの愛に見守られてこの世界に来たのだと思うと、すべての人に対して愛おしく思うようになってしまったのです。

もちろん自分自身にたいしても。

そして、人間観察が大好きな自分にとって、赤ちゃんというのは、もう24時間見ていても飽きず、今でも子供は自分にとっては観察する対象であり、好奇心が掻き立てられます。

そんなこんなの2010年の年末。4年間勤めた会社では、希望退職者に第一号に名乗り出て仕事を辞めることを決め、同時に子供も生まれて家族も増え、2011年より新たな人生が大きく始まろうとしている状況でした。

以前にもお伝えしましたが、会社の退職は2011年3月末でしたが、実際の勤務は2011年1月末までであり、2月と3月は出勤せずとも退職金代わりに給料も出て、4月からは失業保険ももらえる段取りでした。

自分の場合は失業保険は確か4ヶ月、2011年4月から7月まではもらえることになっていたと思います。

「2011年の夏頃まで時間はあるから、子育てもしながら自分ができる仕事を考えていくか・・・」

子供が生まれた時点において、もともと育児休暇を取ろうとして自分にとっては、普通にサラリーマン生活をするつもりもなく、頭の中はフリーランスとして、自分で好きな時間に仕事をして育児にも専念できる生活スタイルを計画してました。

まず、自分が得意とするのはネットビジネスであり、幸いにも生体エネルギー研究所と七沢研究所という2つの組織で最新テクノロジーの商品を開発していたので、それらをネットを通して販売していくことを考えました。

早速、2つの研究所に話を提案しにいくと、双方とも独立することを支援してくださり、小売店として販売していく許可を頂きました。

「ネットショップでも作るかな・・・」

とりあえず何でも自分でやりたがる性分から、ネットショップなども自分で作ろうと思い、2011年1月末で事実上の退職をしてから2月頭よりネットショップ作りをはじめました。

ちょうど1月末から、里帰りしていた母子も戻ってきて、家の中に生後間もない赤ちゃんがいての生活でしたが、その中で子育てもしながら事業の立ち上げと、サラリーマン時代よりもハードスケジュールで部屋に篭りっきりで2月を過ごしました。

「思ったよりも大変で、こりゃ1ヶ月では無理かな・・・」

新月スタートを常に意識していた自分は、2011年3月5日の新月にお店のオープンも計画していましたが、さすがにたったの1ヶ月でそれも1人で全部を準備するのは容易ではなく、オープンを4月にしようかとも途中思いました。

ところが、頭の中で4月オープンを考えると、なぜか胸がソワソワする。

「(?・・・これは頑張って3月頭を目指すか・・・)」

こうして死に物狂いでパソコンにかじりつき、なんとか2月中、実質1ヶ月もしないでネットショップを作り込んで、商品も仕入れて、事業届けも出して、すべてを完成させたのでした。

そして、迎えた3月5日のネットショップのオープン。

ドキドキでしたが、無事にサイトのシステムも問題なく稼働して事業が開始できました。

僅かながらも、当時にはブログ読者の方々もいたので、オープン初日から多くの方に応援して頂き、ネットショップも思った以上に順調に推移をしていきました。

それと同時に、ネットショップ以外の事業も進めており、自分は都内にサロンスペースを作る予定で、その候補地も決まり、具体的にセッションメニューや施術内容も考えて、春過ぎには個人個人とのセラピーを展開していく予定でありました。

すべてが順調に走り出したと思った2011年3月。

なぜ、4月のスタートではドキドキしたのか、その理由がわかったのは事業を開始して6日目。

2011年3月11日でありました。(続く)

《“やつは”メールマガジン(NO.202)》2017-04-29
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生い立ちシリーズ第9話(前編)
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2011年3月11日。

東京での会社員勤務も終えて自由の身になって1ヶ月、また生まれた息子が里帰りも終えて同居しても1ヶ月、そして3月5日に起業して6日目が経った日でした。

その頃、子育ての関係もあって、拠点を実家のある埼玉県の入間市という郊外へと移してました。

「出産から3ヶ月が過ぎ、3月11日は息子も連れて東京に出かけようか」

こうやって決まった2011年3月11日は、実は子供が生まれてから初めて家族で都心へとお出かけをした時だったのです。

ベビーカーをゴロゴロ押して初めての電車へと赤ちゃんを乗せて1時間弱、最初に向かった先は下北沢にある整体院。

自分も起業したばかりでしたが、同じタイミングで知人も整体院を開業したばかりであり、お祝いと息子の顔を見せに訪問したのでした。

ランチも下北沢で済ませ、夕方に自分は渋谷で打ち合わせがあったので、お昼の時間を渋谷で買い物しようという流れになりました。

そして、下北沢から渋谷に移動したのは、もうお昼もだいぶ過ぎて14時30分頃。

人混みに溢れる渋谷の街中をベビーカーを押してのんびり歩いていると、ふと脳裏に都心のビル群がゆらゆら揺れている光景が浮かびます。

「(これは新宿?なんでこんな映像が??)」

そう思いながら、その視えたビジョンを隣にいた家族に伝えていました。

「こんなところで今、地震が起こったらやばいよね」

そんなセリフを発した直後、突如始まった大きな地震の揺れ。

「えぇ?本当に??。それにしてもこれは大きいな・・・」

目の前にそびえる渋谷のビル群が、まるで豆腐のように柔らかいものがグニャグニャ動いてみえて、今起こっている地震が普通の地震でないことを物語っていました。

渋谷の街は、あちこちのビルから悲鳴とともに大勢の人が路上に飛び出して騒然としており、それでもおさまらない地震に皆が不安を抱えて高くそびえるビルなどを見つめています。

実は、その時の瞬間を動画で撮影しており、それはYouTubeで見れます。

https://www.youtube.com/watch?v=wNFLRQ28Sfs

この中の後半で「言ってたとおりだね」というセリフが入っていますが、それが前述した新宿のビジョンのことです。

ちなみに3ヶ月の息子はベビーカーの中でぐっすり睡眠中であり、もちろん地震の揺れの中も爆睡、周囲が騒然としていてもずっと眠ってました。

「小さな子供もいるし早く帰ろう」

一旦、揺れもおさまったところで来た道を引き返して駅に向かいながらも、携帯のネットを使ってどこでどんな地震が起こったのか調べてました。

そして、出てきた表示にびっくり。

「宮城県?震度7??」

スクランブル交差点で信号待ちをしている時に思わず口に出してしまいましたが、すると目の前の女性がくるりとこちらを向き、

「宮城なんですか?私は宮城出身なんです!」

そうやって現地にいる家族のことを考えてとても不安になってました。

かくいう自分自身もまた、宮城県仙台市生まれ。

東北家系の我が家は、親戚も仙台に多くいて、自分の頭の中にもそういった人々の顔が頭に浮かびました。

「おじさん、おばさん大丈夫かな・・・」

そんな心配をしながらも、渋谷駅に到着すると、まさかの電車は動かない。

「そりゃそうか、東京も震度5強とかなり揺れたもんな」

それでも、そのうち復旧して電車もまた動くだろうと思っていましたが、そこからが、今まで体験したことのない東京での異常事態のサバイバルが始まったのです(続く)。

《“やつは”メールマガジン(NO.203)》2017-05-01
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生い立ちシリーズ第9話(後編)
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(前回の続き)
2011年3月11日14時46分に起こった東日本大震災。

東京でも震度5強を記録し、都内の交通網は一気に大混乱となりました。

3ヶ月の子供をベビーカーで連れていた自分は、見事に帰宅難民となってしまい、電車の復旧を待って渋谷駅の東急百貨店のベビー休憩室で休んでいました。

ベビー休憩室は、小さな子供を連れた親子でごった返してましたが、幸いにもここにはオムツもあるし、子連れにとっては、この異常事態の中でのつかの間のオアシスでした。

ところが午後15時過ぎに休憩室に入り、1時間、2時間待っても、電車が復旧される見込みはなく、このままだとデパートも閉店を迎え、寝るところがなく渋谷の街中に乳児を連れて放置されることになってしまいます。

「さすがにこれはマズイ・・・復旧の見込みは望めないな」

18時頃になってそう判断した自分は、その日の午前中に訪れた下北沢の整体院の友人に連絡し、治療院に泊めてもらえないか交渉しました。

ほとんど携帯電話も繋がらない中、運良く何度目かのチャレンジで連絡が取れて、そこで快く受け入れて頂く返事をもらい、そこからベビー休憩室を抜けて、歩いて渋谷から下北沢まで目指しました。

暗くなりかけた渋谷の街の外の景色は、異常な光景が広がってました。

道路では車がずっと立ち往生して渋滞となっており、その横を電車が使えず、また帰宅難民となっている人々が行列となって行進しています。

「いよいよこんな事態が東京でも現実的に起こったか・・・」

世紀末のような光景を横目で見つつ、携帯の地図を頼りに人混みの行列に紛れて下北沢を目指し、ベビーカーを爆走して40分ほどで知人の整体院に到着しました。

到着すると、その中には同じように避難されてきたご家族やお年寄りが数名いて、その中に自分たち家族も混ぜて頂きました。

「赤ちゃん連れて大変だったね」

皆さんとても温かく迎え入れてくださり、子供を抱っこしたり、様子を見てくれたりととても助けられました。

その間、自分は持ち歩いていたパソコンでネットを使って状況を探っており、ネット中継を通してテレビから流れる東北地方の津波の光景を見て唖然としてました。

どんどん増える犠牲者の数。

最初は数百人と出ていましたが、この災害がとても数百人規模のものではなく、数千人、数万人規模の大災害となることはなんとなく予想がつきました。

「日本はどうなってしまうのだろうか」

ほんの半日前までは、まさかこんな事態に巻き込まれるとも思っておらず、これからの自分の行方、明日がどうなっているかもわからない状況でしたが、何よりも東北、そして日本がこの先どうなるのか、まったくその場の状況では見通しがつきませんでした。

さすがに3ヶ月の子供がいるので、親がゆっくりと寝られる状況でもなく、避難所生活でも2時間か3時間おきに泣けばあやしてを繰り返して朝を迎えました。

そして、実はこの一時避難生活の中、真夜中に子供をあやしてる時に直球のメッセージが自分の意識に入り、それはこれから東京などで予定している仕事、プロジェクトをすべて手放せというようなものでした。

「??」

3月12日の朝、なんとか電車も復旧して埼玉県の自宅へと戻って来れましたが、その内容が頭にひっかかりながらも、まずは東京は大きな被害はなさそうだし、そもそも始めたばかりの事業を打ち止めするつもりも毛頭にありませんでした。

いずれにしても、悪夢のような24時間を過ごし、ようやく自宅に戻ってひと段落をしていると、今度はテレビ(当時はまだテレビ見てました)のニュースで「福島原発が爆発しそうだ」という報道が。

そして、あの「ボンっ!」という原発爆発の衝撃的な映像が流れました。

報道の中では「水素爆発」と言われてましたが、こういった事態ではテレビも国も何も本当のことは言わないのが常識。

「これはかなりマズイのではないのかな・・・」

そんな風に思い、各地から情報収集してましたが、やはりネット情報などを見てもただならぬことが起こっている気がします。

「発酵食品、ヨウ素がいいのか!?」

とにかく放射能に関しては、はだしのゲン、チェルノブイリのイメージしかなく、自分はさておき、生まれたばかりの子供がいる状況においては、目に見えない放射能に対して非常に脅威を感じていました。

地震から2日目、原発事故の爆発の翌日3月13日。

「東京も危険なのでは?」

いろいろと情報も入ってくるようになり、自分の身の回りの有識者の中でも「東京脱出」をする人が出てきたり、一方で「この程度なら問題ない」と考える人と二極化が始まって、おまけに双方で衝突してました。

そして、迎えた3月14日。

知人から一本のメール連絡が入りました。

「他言しないでください・・・」

そんな深刻な展開から始まりましたが、話の内容を見ると、どうも原発事故の現場作業員や現地記者の間から漏れた極秘情報を把握しているようでした。

その内容は、政府やメディアの言っていることとは180度違い、すでに現地では原発事故に対して手の施しようがなく、状況としてはメルトダウンしていると。

「滝沢さん、小さなお子さんが生まれたばかりだと思います。すぐにでも首都圏も離れてください。」
「山梨県の甲府の七沢先生とご縁があるので、先生のところに避難されると良いでしょう」

情報をリークされた方とは、特別親交が深い方ではなかったですが、なぜかこの時は直感的に感じるものがあり、自分の中で1つの覚悟が決まりました。

「脱出するか・・・」

そして、大事なことを教えて頂いたのは良いのですが、1つだけ注意書きが。

「ただし、滝沢さんは影響力がありますので、このことはブログには書かないようにしてください」

もちろん、真実かどうかわからない中で自分も安易に情報発信をするつもりもなかったですが、この時は正直迷いました。

とりあえず、身の回りで連絡がつく人にだけでも、こういった情報が入ったこと、なるべくなら避難するように伝えようと思って、同じように子供を抱えている地元の同級生などには伝えました。

結果、誰一人として信じてももらえず・・・。

いや、さすがに自分が真面目にそんな話をするのは珍しいことなので、周囲はびっくりして真剣には聞いてくれましたが、それでも避難などはとても考えられない人ばかりでした。

「しょうがない、とりあえず自分たちだけでも」

そうして、3月15日の朝。山梨県に向かって首都圏を飛び出し、それから今もまだ帰っていない避難生活が続いているのです。(続く)